レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2024/03/15 10:57
- 更新日時
- 2024/03/26 21:11
- 管理番号
- 県立長野-23-190
- 質問
-
解決
長野県庁が信州大学教育学部の場所に庁舎ができる前は西方寺を使っていたと聞いたことがある。
いつ頃のことだったか知りたい。
- 回答
-
『長野市誌 第8巻』長野市誌編さん委員会編 長野市 1997【N212/318/8】
p.62-63「西方寺」の項目に「明治四年(一八七一)六月から七年七月まで三年あまり、長野県庁仮庁舎として使用された」とある。このほか、下記資料に記述が確認できた。
『長野県史 通史編 第7巻』長野県編 長野県史刊行会 1988【N209/11-4/7】
p.51に明治四年七月西方寺を仮庁舎として開庁式を行い、二十六日から長野県の執務を開始したことが書かれている。
また、県庁舎の新築については、p.103に明治6年用地を長野村と腰村の地七反七畝二三歩(現信州大学教育学部の地)と決定し、明治7年10月に落成、30日から事務を開始したことが書かれている。『長野県政史 第1巻』長野県編・刊 1971【N317/74/1】
p.41 「[明治4年]七月二十五日、長野県は西方寺を仮庁舎に決め、権(ママ)知事はじめ官員一同が中野から引越し、翌二十六日執務が開始された。」とある。
また、p.68に「落成した長野県庁舎に、明治七年十月三十日移った」とあり。
- 回答プロセス
-
1 概要を調べる
『長野県百科事典』信濃毎日新聞社開発局出版部編 信濃毎日新聞社 1981【N030/2a】
p.584-587「長野県」、p.255-256「県庁舎」等の項目を参照するも、該当期間の仮庁舎に関する記述は確認できず。2 長野県発行の資料を参照する
『長野県政史 第1巻』(回答記載)
『長野県史 通史編 第7巻』(回答記載)3 同地域の地域資料を参照する
『長野市誌 第8巻』(回答記載)
- 事前調査事項
-
『長野県史 美術建築資料編 全1巻(2)建築・解説』長野県編 長野県史刊行会 1990【N209/11-5/1-2-1】のp.317「旧長野県庁舎」の項目には「当初の県庁舎は西長野字盲塚(信州大学教育学部の地)におかれていた」とあるが、これ以前に使っていた場所とのこと。
- NDC
-
- 地方自治.地方行政 (318)
- 参考資料
-
-
長野市誌編さん委員会 編集. 長野市誌 第8巻. 長野市, 1997.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I32111100475824 -
長野県 編集. 長野県史 通史編 第7巻. 長野県史刊行会, 1988.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I23111100405330 -
長野県政史 第1巻. 長野県, 1971.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001207141
-
長野市誌編さん委員会 編集. 長野市誌 第8巻. 長野市, 1997.
- キーワード
-
- 県庁舎
- 長野県
- 西方寺 (長野市)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000347492