レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年7月11日
- 登録日時
- 2015/08/06 17:37
- 更新日時
- 2015/08/11 18:05
- 管理番号
- 蒲郡-2015-07111-A
- 質問
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解決
西郡局(にしのこおりのつぼね)の父・鵜殿長持(うどのながもち)は、今川義元の妹を妻としたことから、子の長照(ながてる)は今川氏に味方し、永禄5年に徳川家康に攻められ上ノ郷城は落城、孫の氏長(うじなが)(氏廣(うじひろ)ともいう)と氏次(うじつぐ)が捕虜になった。その後、家康の妻子との捕虜交換があったという。そして、鵜殿氏長が徳川氏に仕えたのは永禄11年だという。(ウィキペディアより)
しかし、西郡局は、永禄8年に督姫(とくひめ)を生んでいる。従って、鵜殿氏長が家康に仕えるのは、永禄7年以前と考えられるが、鵜殿氏長の徳川氏仕官と西郡局の徳川家康に仕えたのは関係がないのか。
西郡局と鵜殿家の資料があれば知りたい。
- 回答
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西郡局は、鵜殿長忠の養女で、上ノ郷城落城のあと、人質として家康の元に出された。
鵜殿長忠は、長持の息子にあたり、上ノ郷鵜殿から出た分家の初代にあたる。惣領の上ノ郷鵜殿家と、分家の柏原(かしわばら)鵜殿家とはそれぞれ別の時期に徳川氏に仕えており、西郡局の側室入りと氏長の仕官とは直接には関係のないことのように思われる。
『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』
『家康の族葉』
『鵜殿家史 第1分冊』を紹介。
- 回答プロセス
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■西郡局について
1.ウィキペディアの記述を確認。「西郡局」を調べると、「西郡局(にしごおりのつぼね、生年不詳 - 慶長11年5月14日(1606年6月19日))は、徳川家康の側室。西郡城の城主、鵜殿長持の娘(鵜殿長祐の娘、または鵜殿長忠の娘とする説もある)。」とあったので、まずこちらを詳しく調べてみる。
2.『蒲郡市史 本文編1 原始・古代 中世』を見ると、p460に「西郡局」の項があり、「上ノ郷城落城の後、鵜殿長忠は家康に服属するにあたって娘を人質に出したという。娘は養女であり、~(中略)~家康の初めての側室であり「西郡局(にしのこおりのつぼね)」と呼ばれた。」とあった。
西郡局は、長持の娘ではなく、長忠の養女であるとのこと。
3.他の資料も見ると、『鵜殿家史 第一分冊』巻之首(48)、巻之1.2.(4)の家系図に長忠の娘として「西郡女君」「女子号西郡殿」との記載あり。
『家康の族葉』p269にも「鵜殿氏(蓮葉院鵜殿氏西郡局)は、三河西郡の城主鵜殿藤助長忠の女である(寛政重修諸家譜)。長行・長治・長持と記したものもあるが、寛政重修諸家譜巻百四十二には、長忠は『実は鵜殿三郎長持が二男、母は今川治部大輔義元が妹』とあるから、長持から見れば孫女に当たるのである。」と記されている。
4.督姫を生んだ年については、『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p460、『家康の族葉』p269ともに永禄8年11月岡崎城にてという記述があった。
■鵜殿家について
『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p333~鵜殿氏のおこりから一族の分立まで詳しく書かれている。p341に、「長善の子の代に、上ノ郷・下ノ郷・不相(ふそう)の三家が分かれ、さらに上ノ郷から柏原(かしわばら)家が分かれた。」とあり、p344~「鵜殿氏惣領上ノ郷家」、p347~「下ノ郷鵜殿家」、p350~「柏原鵜殿家」、p353~「不相鵜殿家と常空物語」の項があった。
それらを読むと以下のことがわかった。(『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』を要約)
鵜殿長持が今川義元の妹を妻としていることからも、鵜殿家は今川氏と深い縁戚関係にあり、今川家臣団でも三河地区を治めるための重要な家臣であった。長善に始まり、長将、長持、長照、氏長と続いて行った惣領であるこの筋は、居城の名のまま、上ノ郷鵜殿と称された。この総領筋が、上ノ郷城で元康(後の家康)と合戦を行なった。
鵜殿氏には3つの分家があり、それぞれ居城にちなみ、下ノ郷鵜殿、不相(ふそう)鵜殿、柏原(かしわばら)鵜殿と称された。
下ノ郷鵜殿の初代は長存(長持の父の弟)、不相鵜殿の初代は長景(長持の父の弟)にあたる。
最後の柏原鵜殿の初代は長忠(長持の息子で、長照の弟)、こちらの分家こそ、西郡局が養女として入った家である。p350に「長忠が、徳川家康から柏原で七〇〇石の地を与えられたことから、長忠の家系を後世に柏原鵜殿家と称した」とある。
■鵜殿家の徳川仕官について
惣領上ノ郷鵜殿家(氏長)は、『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p459に「人質交換後の氏長は、吉田城に入り~(中略)~永禄11年12月不相家の実成及び休庵と共に家康に従った。」とあり、不相鵜殿と共に、仕官したのは永禄11年であることがわかる。
下ノ郷家は早期に徳川に仕官。『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p349に「上ノ郷合戦の際は家康側に属して旧領を安堵され、鵜殿一族の惣領となった。」と記述があるため、永禄5年以前と考えられる。
柏原家は『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p352に「永禄8年城代小原鎮実が遠江に退去したので下ノ郷の玄長のもとへ移り、のちに家康に属したという。」と記述がある。西郡局は柏原家より出されたので、永禄8年11月に督姫を産むことは可能である。
以上のことを利用者にお知らせした。
その際、調査にあたって使用した資料を参考資料として紹介した。
- 事前調査事項
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利用者がセルフレファレンスにて、ウィキペディアの情報を提示された。
- NDC
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- 中部地方 (215 9版)
- 伝記 (280 9版)
- 参考資料
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- ウィキペディア「西郡局」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A1%E5%B1%80(2015.8.6確認)
- ウィキペディア「鵜殿氏」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%AE%BF%E6%B0%8F(2015.8.7確認)
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中村, 孝也, 1885-1970 , 中村孝也 著. 家康の族葉. 講談社, 1965.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001382214-00 -
蒲郡市史編さん事業実行委員会 編 , 蒲郡市. 蒲郡市史 本文編 1(原始古代編・中世編). 蒲郡市, 2006.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008182175-00 - 鵜殿家史,第1分冊,鵜殿長春∥著,蒲郡郷土史研究会,1981
- キーワード
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- 鵜殿家
- 西郡局
- 鵜殿長持
- 今川義元
- 徳川家康
- 鵜殿長忠
- 上ノ郷城
- 上ノ郷合戦
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 鵜殿家の家名については、『蒲郡市史 本文編1 原始・古代・中世』p342に「家名はあくまでも後世に便宜的に使われたものである。」との記述あり。
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000178105