レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年09月02日
- 登録日時
- 2024/03/17 17:54
- 更新日時
- 2024/03/17 17:54
- 管理番号
- 福井県立_20230903-2
- 質問
-
解決
日本で初めてツッコミをした人はだれか。
- 回答
-
鶴見俊輔 加太こうじ他著『日本の大衆芸能』 民衆の涙と笑い 現代教養文庫406 1962.12 社会思想社のp.125に「明治末年から大正にかけて、まだ漫才が<寄席>に出入りできずに、みすぼらしい小屋掛けで演ぜられていた頃である。一組一組の漫才などは問題ではなかった。無名の漫才師がいれかわり立ち替り、客の面前に登場し、エロスにみちた歌をうたい、踊りをし、猥談をやった。蠅とり紙にへばりつく蠅の断末魔のマネや、太夫が一言ごとに才蔵の頭をなぐるのもある」
とあることから、明治末年から無名の漫才師がツッコミをしていたと言えそうなので、特定の人物を挙げることは難しい。なお、『日本国語大辞典』によると、ツッコミとは、「漫才で、ぼけに対して話を進める役。万歳の大夫役にあたる」となる。
「漫才」は、「エンタツ・アチャコの人気を受けて、昭和七年(一九三二)一月の吉本興業の宣伝雑誌「ヨシモト」に、宣伝部長橋本鉄彦が漫談にヒントを得て命名し載せたのが初めという」(日本国語大辞典)ことから、初めの漫才師をエンタツ・アチャコであるとみるならば、そのツッコミである「花菱アチャコ」が初めての人になる。「花菱アチャコ」1897−1974
大正-昭和時代の漫才師,俳優。
明治30年2月14日生まれ。喜劇の鬼笑会から漫才に転向。のち吉本興業にはいる。昭和5年横山エンタツとコンビをくみ「早慶戦」などのしゃべくり漫才で人気をえる。コンビを解消し,10年アチャコ劇団を結成。戦後は喜劇俳優として活躍した。昭和49年7月25日死去。77歳。福井県出身。本名は藤木徳郎。(『日本人名辞典』より)漫才以前にあった、「歌を歌い、鼓を鳴らし、その合い間に愉快なしゃべくりが挿入される形」の芸である「万才」の太夫(ツッコミ)として資料の中で名前が挙がるのは「玉子屋円辰」「扇子屋豊丸」
「玉子屋円辰」明治-昭和時代前期の漫才師。
慶応元年6月5日生まれ。卵の行商をしながら江州音頭(ごうしゅうおんど)をうたう。明治30年から玉子屋為吉,のち為丸の名で舞台にたつ。名古屋で尾張万歳(おわりまんざい)を修業後,37年円辰と改名,大阪の二人漫才の基本型をつくった。昭和19年6月19日死去。80歳。河内(かわち)(大阪府)出身。本名は西本為吉。(『日本人名辞典』より)「扇子屋豊丸」
知多万歳出身。大阪に来て三曲万歳をメーンに頭角を現し、円辰らに張り合っていた。三曲万歳は、鼓に三味線・胡弓を加えたことからこの名が出たが、のちには太夫一人に才蔵が数人、もしくは一座総出演して謎々・問答・尽くし物などをやりとりし、その区切り目ごとに「アイナラエー」と合唱した。豊丸は松島の堀内席を中心に活躍していたが、この席の名が見られるのは三十八年ごろからなので、その活躍もこのころと考えられる。また後に尼崎の大物で清水座を経営している。(『新修大阪市史』第6巻 1994.12 大阪市 p.974-975)
- 回答プロセス
-
(1)NDLサーチ[https://iss.ndl.go.jp/] で「日本 漫才 歴史」をキーワードに検索。
→織田正吉「万歳から漫才へ--その歴史と笑い」『国文学:解釈と鑑賞』75巻5号p.46-53
「玉子屋円辰の時代は端唄、小唄、都々逸、数え唄、阿呆陀羅経など、さまざまな音曲を聞かせ、芝居のもどき(パロディー)をするのが万才で、その間に謎かけや問答など笑いを呼ぶ会話をはさんだ。歌と歌の間のつなぎに過ぎなかった笑いの会話を、それだけで独立の演芸としたのが横山エンタツ・花菱アチャコのコンビである。
(2)当館の所蔵資料を「まんざい れきし」をキーワードに検索
→足立克己著『上方漫才史』1994.5 東方出版 がよさそう。→戦後の歴史なので最初の人を探すのには不向き。
(3)しゃべくり漫才の祖といえばエンタツアチャコでは?と思い、当館所蔵資料をキーワード「あちゃこ」「えんたつ」で検索
→『NHK歴史への招待』22 1982.8 日本放送協会出版
p.68
現代の漫才は突っ込みとボケという二つのキャラクターの衝突によって成立するが、「萬歳」の時代にこの原型はつくられていた。太夫と才蔵と呼ばれるものがそれである。二人の役柄を単純に割り切れば、太夫は語り手、才蔵は鼓打ちなのである。祝い芸「萬歳」と「万才」を区別する考え方がある。その場合「万才」は多くの聴衆を相手にする舞台芸と考える。舞台芸「万才」は江戸時代から存在していたといわれるが、明治の末に大阪の小屋で人気をとった玉子屋円辰という演者が”万才の王”と呼ばれている。「万才」は「萬歳」の伝統を色濃くひきずっていた。歌を歌い、鼓を鳴らし、その合い間に愉快なしゃべくりが挿入される形が厳しく守られていたという。
エンタツ・アチャコのコンビ結成は昭和五年である。二人は初めから楽器も持たず、歌も歌わなかった。しゃべくり専門だったのである。この新しいスタイルをうちたてたことが二人を革命児と呼ばしめるゆえんである。
エンタツ・アチャコは漫才の元祖と呼ばれ、しゃべくり漫才がこの”二人芸”の主流となったのである。
→竹本浩三著『オモロイやつら』2002.7文春新書 文藝春秋
p.26 アチャコが今までのおいしいボケ役からツッコミ役に甘んじたのは、エンタツが商業学校上がりのインテリであったことと、アチャコの従順さからである。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 芸術 (7 10版)
- 参考資料
-
-
鶴見俊輔/〔ほか〕著. 日本の大衆芸術. 社会思想社, 1962.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I42111007015110564 -
新修大阪市史編纂委員会 編. 新修大阪市史 第6巻. 大阪市, 1994.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002390952
-
鶴見俊輔/〔ほか〕著. 日本の大衆芸術. 社会思想社, 1962.
- キーワード
-
- 漫才
- 花菱アチャコ
- 玉子屋円辰
- 扇子屋豊丸
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000347611