レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/03/27
- 登録日時
- 2009/06/19 02:10
- 更新日時
- 2009/11/20 11:36
- 管理番号
- 埼浦-2009-008
- 質問
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解決
江戸時代に上尾で近隣の子弟を教育していた、森朴斎(万延元年(1860)没)の人となり、暮らしぶりについて知りたい。森朴斎は、桑名藩(三重県)の医師だった。
- 回答
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森朴斎について書かれた資料を紹介した。
『上尾市史 9 (別編2) 金石・文化財』
p605「森朴斎碑と墓」(上尾市指定 記念物 史跡)によると、観音堂(大字平方)にある森朴斎碑と墓は、上尾市指定の記念物になっている。「森朴斎は桑名藩(三重県)の医師で名は彰、弘化年中(1844~48)から平方村の名主太重郎宅に寄宿、近隣の子弟を教育し、その数300人余といわれている。万延元年(1860)5月12日、朴斎は54歳で没し、正覚寺(現観音堂)墓地に葬られた。」とある。また、「平方村に入来した理由は不分明であるが、『飄然遊干武州』とあるので、『花鳥風月』を愛でる全国行脚の途次であったとみられる。」とある。
p363-364には、森朴斎碑の写真・解説がある。
『上尾市史 6 通史編・上』
p898、p900の筆子塚の解説中に、森朴斎の名が散見される。
『史跡ある記』(上尾市 1980)
p70-71「森朴斎の遺跡」には、森朴斎の人となり、暮らしぶりについて記述あり。
『平方史話』(平方明治百年記念顕彰建設委員会 1971)
p69「森朴斎の門下」、p109-110に記述あり。
『埼玉苗字事典 4』
p7729「上尾村 私塾師匠元伊勢桑名藩士森彰・号朴斎・喜良久・独立庵・万延元年没五十四歳あり。」という記述があり。
『彩の国偉人調査報告書』
p75「森朴斎」に簡単な解説あり。
金澤文麿ほか「埼玉金石文集(第3回)」(『埼玉史談(旧版) 第5巻第2号』p132-137所収) p136-137「森朴斎翁碑銘」の碑文が掲載されている。
『埼玉県教育史金石文集 上』
p39-40「森朴斎の碑」 碑文が掲載されている。
「歴史人物風土記(114) 寺子屋を開いた森朴斎 15年間若者を教育 墓、碑は市の文化財に」(『埼玉新聞 1985年9月2日』 9面)
「上尾の指定文化財(23) 史跡 森朴斎碑と墓」(『埼玉新聞 1989年9月1日』 10面)
「森朴斎の碑と墓」(『広報あげお 2003年7月号』p22)
- 回答プロセス
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『上尾市史』を調査し、森朴斎についての基本的な情報を得た。
自館目録および『埼玉雑索』を〈森彰 or 森朴斎〉で検索したが、該当する資料はなかった。
『埼玉人物文献DB』を〈森朴斎〉で検索したところ、以下の資料がヒットした。『埼玉新聞 1985年9月2日』『埼玉新聞 1989年9月1日』『広報あげお 2003年7月号』『埼玉県教育史金石文集 上』『埼玉史談(旧版) 第5巻第2号』。
森朴斎は桑名藩士であったことから、桑名関係資料を調査したが、該当する記述は見あたらなかった。以下が調査済み資料
『桑名市史 続編』『桑名人物事典(三重県郷土資料叢書)』『新編物語藩史 7』『桑名藩分限帳』『三重幕末維新戦記』『桑名藩・勘定人渡部勝之助の日記』『文書館紀要 4』
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 医学 (490 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『上尾市史 9 (別編2) 金石・文化財』(上尾市教育委員会 上尾市 1999)
- 『上尾市史 6 通史編・上』(上尾市教育委員会 上尾市 2000)
- 『史跡ある記』(石島潔 上尾市 1980)
- 『平方史話』(平方明治百年記念顕彰建設委員会 1971)
- 『埼玉苗字辞典 4』(茂木和平 2008)
- 『彩の国偉人調査報告書』(埼玉県総合政策部文化振興課 2001)
- 『埼玉史談(旧版) 第5巻第2号』
- 『埼玉県教育史 金石文集 上』(埼玉県教育委員会 1968)
- 『埼玉新聞 1985年9月2日』
- 『埼玉新聞 1989年9月1日』
- 『広報あげお 2003年7月号』
- キーワード
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- 森 朴斎(モリ ボクサイ)
- 上尾市-埼玉県-歴史
- 桑名-桑名藩-三重県
- 医師-江戸時代
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 定番事例-参考資料-埼玉新聞-解決
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000055801