レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年11月04日
- 登録日時
- 2016/11/04 13:42
- 更新日時
- 2016/11/10 09:47
- 管理番号
- 112
- 質問
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解決
戦後、尼崎市保健所に女性初の所長として就任したという黛喜久子さんについて知りたい。
- 回答
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昭和22年(1947)9月に保健所法が改正されました。これにより政令で定められた市も保健所を設置することができるようになり、尼崎市は昭和23年7月になって、兵庫県が昭和14年に開設していた県立尼崎保健所の移管を受けました。市では、この保健所を昭和26年10月に東難波に移転新築して中央保健所とし、さらに昭和27年12月には市域の北部を担当する塚口保健所を開設しました。その際、親しみやすく利用しやすい保健所にしたいという阪本勝市長のアイデアにより、塚口保健所は女性職員のみを配置することとなり、初代所長として白羽の矢をたてられたのが、当時神戸市衛生局に勤務していた医師・黛喜久子さんでした。将来を嘱望されていた黛さんを招へいするため、市の幹部は神戸市に働きかけ、黛さんは神戸市を退職した翌日の昭和27年12月28日に塚口保健所長に任命されました。
黛さんは、塚口保健所に勤めることになった経緯や在職当時の活動の様子について、「塚口保健所思い出の記」という文章を尼崎市保健所20周年記念誌編集委員会編『二十年のあゆみ』(尼崎市役所,1969年)に寄せています。
それによれば、黛さんは広い管内に対応するため、当初集会所などを会場に「移動保健所」を開催していましたが、2年後には保健婦の地区駐在制を実施して、事業の充実拡大に努めました。そして、寄生虫の駆除や、農繁期の女性が安心して子どもを預けられるような幼児教室、地域内でスライド映画などを上映する懇談会、結核対策推進地区指定にともなう患者管理など、多くの実践を通じて地域保健福祉の向上のために努力されました。また、女性ばかりの保健所として各地からの視察を受け入れる一方で、保健所をPRするため市のコーラスコンクールに出場したこともありました。
なお、昭和30年9月には市の組織改正により、塚口保健所では狂犬病予防といった環境衛生業務も担当するようになったため、男性職員も配置されるようになります。
その後、黛さんは昭和38年3月に塚口保健所長を退任しました。昭和39年には小田地区を担当する東保健所が設置され、塚口保健所も北保健所と改称しています。しかし、黛さんは、市内に医師が不足していることから、手記を寄せられた昭和44年時点でも引き続き市の嘱託医として勤務していました。
- 回答プロセス
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1 以下の文献を紹介した。
◆尼崎市保健所20周年記念誌編集委員会『二十年のあゆみ』尼崎市役所,1969年
尼崎市の保健所の沿革や事業内容について、写真・統計等を交えて紹介した文献です。また、黛喜久子氏(元塚口保健所長・西保健所嘱託)「塚口保健所思い出の記」のほか、黛氏を招聘した経緯を記した古川元氏(元尼崎市衛生局長)「マリヤさんあまくだる」、黛氏のもとで結核予防に取り組んだ立入節子氏(尼崎市西保健所)「結核登録票発足の頃」などの関係者の回想を収録しています。
◆「優しい"女性ばかり"で塚口保健所近く開所」
(『尼崎市民時報』第63号,1952.11.25収録)
塚口保健所が新設されることを報じる市報の記事です。
- 事前調査事項
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なし
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 衛生学.公衆衛生.予防医学 (498 9版)
- 家族問題.男性.女性問題.老人問題 (367 9版)
- 参考資料
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- 尼崎市保健所20周年記念誌編集委員会編『二十年のあゆみ』尼崎市役所,1969 (当館請求記号 498.6/A/ア)
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「優しい"女性ばかり"で塚口保健所近く開所」
『尼崎市民時報』第63号 尼崎市秘書室発行 1952年11月25日 (逐次刊行物)
- キーワード
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- 尼崎市
- 保健所
- 女性史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000199171