レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年11月01日
- 登録日時
- 2013/11/01 15:36
- 更新日時
- 2013/12/06 22:16
- 管理番号
- 20131101-1
- 質問
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解決
辰野金吾について知りたい。
- 回答
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辰野金吾 [日本大百科全書(小学館)]
(1854―1919)
明治・大正時代の日本建築界の元勲とされる。安政(あんせい)元年8月22日、唐津(からつ)藩(佐賀県)に下級武士の次男として生まれる。工学寮を経て1879年(明治12)工部大学校造家学科(現、東京大学建築学科)第1回生として首席で卒業。翌1880年、イギリス留学を命じられ1883年帰国、1884年から工部大学校に日本建築の講座を設けて担当する。以来、近代日本の建築界を指導し、数多くの建築家を育成したほか、教育界、建設界にも業績を残している。1898年帝国大学工科大学長となり1902年(明治35)退官。建築学会会長、議院建築調査会委員を歴任したほか、辰野葛西(かさい)建築事務所(東京)、辰野片岡建築事務所(大阪)を開設、日本銀行本店、東京駅、旧両国国技館をはじめとする日本近代建築史上重要な作品を手がけている。大正8年3月25日没。・・・
参考文献
藤森照信著『日本の建築 明治大正昭和3 国家のデザイン』(1979・三省堂)
辰野金吾 【たつの・きんご】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE (2013/11/01確認)
朝日日本歴史人物事典
生年: 嘉永7.8.22 (1854.10.13)
没年: 大正8.3.25 (1919)
明治大正期の代表的建築家。建築教育にも大きな足跡を残した。唐津藩(佐賀県)藩士姫松倉右衛門の次男。唐津生まれ。明治1(1868)年,辰野宗安の養嗣子となる。同5年,出京。翌年,新たに設立された工部省工学寮に入学した。ここで,お雇い外国人教師コンドルの指導を受ける。12年,工部大学校(工学寮の名称変更)の第1回卒業生として卒業。造家学科の卒業生4名の中の首席であった。留学を申し付けられ,13年,ロンドンに出発,同地のバージェス建築事務所などで建築を研修,フランス,イタリアを回って16年に帰国。同年,工部省に奉職,処女作銀行集会所(1885)の設計を行う。17年,工部大学校教授に就任。19年,辰野建築事務所を設立した。この年,工部大学校は帝国大学工科大学に吸収,再編成され,同校の教授となった。以降,35年の退官まで多くの優れた建築家を育てた。明治21年,日本銀行の設計者に決定。この準備のため渡欧し翌年帰国。31年,建築学会会長,工科大学長に就任した。辰野建築事務所(のちの辰野葛西建築事務所,辰野片岡建築事務所)が設計した作品は228件にもおよぶといわれ,まさに明治・大正の建築界を席巻したといえよう。作品の一例に,日銀本店(1896),両国国技館(1909),東京中央停車場(東京駅,1914)がある。フランス文学者辰野隆は長男。<参考文献>白鳥省吾編『工学博士辰野金吾伝』,藤森照信「国家のデザイン」(『日本の建築[明治・大正・昭和]』3巻)
世界大百科事典 第2版
たつのきんご【辰野金吾】 1854‐1919(安政1‐大正8)
建築家。肥前国唐津に生まれる。工部大学校造家学科でコンドルの教えをうけ,1879年同校を卒業。渡英し,主としてバージェスW.Burgesのもとで設計を修業する。帰国後,84年東京帝国大学工科大学教授となり,伊東忠太,関野貞ら後進を育てる一方で,86年新興建設資本と協力して造家学会(後の建築学会)を結成した。明治中期以降の創成期日本近代建築界を主導し,その性格を決定づけた。また,東京や大阪に建築事務所を開設,多くの作品を設計建築する。
デジタル大辞泉
たつの‐きんご 【辰野金吾】
[1854~1919]建築家。佐賀の生まれ。英国に留学。明治から大正の建築界に指導的役割を果たし、日本建築学会会長などを歴任。作品に日本銀行本店旧館・東京駅などがある。
たつのきんご【辰野金吾】 国史大辞典
一八五四 - 一九一九
明治・大正時代の建築家。安政元年(一八五四)八月二十二日、肥前唐津藩士姫松倉右衛門を父、おまつを母として唐津に生まれる。幼時、江戸の唐津藩邸に住む叔父辰野宗安の養嗣子となる。明治十二年(一八七九)十一月工部大学校造家学科を卒業、翌年二月から同十六年五月まで、ロンドンのウィリアム=バージェスの建築事務所、ロイアル=アカデミー=オブ=アーツなどで建築設計を学んだ。帰国後ただちに工部省営繕局に勤務したが、同十七年十二月コンドルの後を襲って工部大学校教授となった。しかし同十八年末工部省が廃省となる前にひそかに考えるところがあって官を辞した。十九年四月、帝国大学創設とともに再び工科大学教授に推され、同三十五年末まで建築設計を教えるとともに大学における建築教育の基礎を築いた。三十六年以後はもっぱら民間の建築家として活動し、同年葛西万司とともに辰野葛西建築事務所を東京市京橋区に、また三十八年には片岡安と共同して辰野片岡建築事務所を大阪市北区に設立した。この二つの事務所は多数の銀行・会社・工場・住宅などを設計した。辰野あるいはその事務所が設計した建物のうち現存する例として、日本銀行本店(東京都中央区日本橋本石町、明治二十九年竣工、重要文化財)、旧日本銀行京都支店(京都市中京区、明治三十九年竣工、重要文化財)、中央停車場(東京駅、東京都千代田区丸ノ内、大正三年(一九一四)竣工、一部戦災を受ける)などがある。大正八年三月二十五日死去。六十六歳。墓は東京都新宿区西新宿七丁目の常円寺にある。
[参考文献]
白鳥省吾編『工学博士辰野金吾伝』
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本の建築 (521 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 辰野金吾
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139860