レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/04/14
- 登録日時
- 2024/02/24 00:30
- 更新日時
- 2024/02/24 00:30
- 管理番号
- 牛久-1914
- 質問
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解決
牛久小学校の初代校長は黒須嘉市郎だと思うのだが、それがわかる資料はあるか。
- 回答
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○初代校長名は私学扱いの時期なのか、公立扱いの時期なのかにより変わることを説明し、明治5年、私学の牛久学舎(牛久小学校)の学校主は不明。明治10年公立となった牛久学校の学校主は「黒須加市郎」であることを挙げる。資料には「校長」ではなく「学校主」と記載あり。次の資料を紹介。※()内の数字は回答プロセスの資料番号。
(1)『創立120年 牛久市立牛久小学校』(牛久市立牛久小学校/1992)
(3)『牛久市史 近現代1』(牛久市史編さん委員会編/牛久市/2001.1)…p46-47、p86-87、p114
○後日追加調査で、明治5年、私学扱いの初代学校主は、(5)の資料より「黒須嘉一郎(嘉市郎)」と判明。(3)の資料には、黒須嘉市郎は明治8年に牛久小学校の最初の教師となるとあり、資料により異なる。
(5)『牛久市史料 近代2』(牛久市史編さん委員会編/牛久市/1997)…p360
→明治5年に学制が発布され、黒須嘉一郎氏が寺子屋を廃し、牛久小学校を開設する。
(9)『茨城県史 市町村編 3』(茨城県史編さん市町村史部会編/茨城県/1981) …p528
→牛久小学校の初代の教師黒須嘉市郎。
(3)『牛久市史 近現代1』(牛久市史編さん委員会編/牛久市/2001.1)…p41-42、p131-132
→黒須嘉市郎は明治8年に牛久小学校の最初の教師となるとあり。
黒須の下の名前「嘉一郎」「嘉市郎」「加市郎」「賀市郎」「一郎」は資料により異なる。資料(3)(5)(9)より、「加市郎」「嘉市郎」「嘉一郎」は同一人物。私立(明治5年)、公立(明治10年)ともに、初代学校主は黒須嘉一郎(嘉市郎・加市郎)。
- 回答プロセス
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1. フリーワード「牛久小学校」「初代」「校長」で自館資料検索。2件ヒット。
(1)『創立120年 牛久市立牛久小学校』(牛久市立牛久小学校/1992)…年史歴史年表「牛久小学校の120年」に、「明治5年 学制発布 牛久小学校が生まれる」「明治19年 牛久尋常小学校となる」とあり。初代校長名無し。
(2)『牛久市立牛久小学校 研究紀要』(牛久市立牛久小学校/1993)…初代校長名無なし。
2. 同時に「初代校長」というワードから地域小学校の創設の歴史と捉え、次の資料を確認。
(3)『牛久市史 近現代1』(牛久市史編さん委員会編/牛久市/2001.1)
…p43「表1-7 明治8年の市域の小学校」に、「私立/名称:牛久学舎/地名:河内郡牛久村/設立年:8年/教員:男1/学校主:佐野庄作」とあり。
…p46「表1-8 明治9年の市域の小学校」に、「私立/名称:牛久学舎/地名:河内郡牛久村/設立年:8年/教員:男1/学校主:黒須嘉市郎」とあり。
→教員が1名のため、教員と学校主は同一人物と考えられる。
…p47「表1-9 明治10年の市域の小学校」に、「名称:牛久学校/地名:河内郡牛久村/設立年:10年/教員:男1」とあり。学校主名はなし。「茨城県は明治10年(1877)に新治県から引き継いだすべての市立小学校を公立に改めている」とあり。
→明治10年に牛久学校は公立となったことが判明したが、学校主名の記載なし。
…p86「表1-19 定期試験表にみる牛久市域の小学校」の牛久小の欄に、「定期試験名:10年後/主任教員:黒須加市郎」「定期試験名:11年前/主任教員:黒須嘉一郎」の記載あり。
→明治10年の学校主は黒須加市郎、11年は黒須嘉一郎と判明。
…p87に参考資料として『牛久市史料 近代2』あり。
…p114「図1-1 明治前期における牛久市域の小学校の変遷」に「M8(観成院)牛久学舎-M9牛久小学校」とあり。→牛久学舎が牛久小学校の始まりと判明。
3. 牛久学舎のある牛久村が現在の牛久市で間違いがないかを確認するため、下記の資料を見る。
(4)『角川日本地名大辞典 8』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編/角川書店/1983.12)
…p145「〔近世〕牛久村 江戸期~明治22年の村名」「〔近代〕牛久 明治22年~現在の大字名」とあり。
→初代校長名は私学扱いの時期なのか、公立扱いの時期なのかにより変わることを説明。私学の明治5年の牛久学舎の学校主は不明。(3)のp47、p86より明治10年公立となった牛久学校の学校主は黒須加市郎であることを挙げ、(3)の資料を貸出。「校長」ではなく「学校主」として記載あり。
4. 明治5年の学校主名が不明なことと、黒須の名前が「加市郎」「嘉市郎」「嘉一郎」と複数あったので、後日追加調査。
(3)の資料を再確認。
…p41「市域の家塾教師」の項に、「牛久町 黒須賀市郎」の記載あり。→「賀市郎」の表記も見つかる。
…p42「黒須嘉市郎」は「『齢及耆老躯幹壮健驍勇而夙夜黽勉有不倦者」と記されており、彼が老齢であることがうかがわれる」とあり。
…p131「黒須嘉市郎」の項に、「碑には『加市郎』とあるが、史料などでは『嘉市郎』と記されているものが多い」とあり。
→「加市郎」と「嘉市郎」は同一人物と判明。
…p132「黒須は、この地にあった蓮蔵院で提灯座という寺子屋を開いていたといわれ、明治14年に死去した」「彼は明治8年に家塾教師から牛久小学校の最初の教師となったが、その人となりや履歴についてはほとんどわからない」「黒須が新治郡師範学入校当時、すでに高齢であった」「定期試験表により明治12年まで牛久小学校で教鞭をとっていたことが判明」「黒須加市郎は、観成院住職と牛久小学校教師を兼ねており」とあり。
→黒須嘉市郎は明治8年に牛久小学校の最初の教師となるとあり。
5. (3)より、次の資料を確認。
(5)『牛久市史料 近代2』(牛久市史編さん委員会編/牛久市/1997)
…p360「学校」の項に、「黒須嘉一郎氏アリ自宅ニテ寺子屋教育ニ従事シ居タリシガ明治5年学制頒布ニヨリ寺子屋ヲ廃シ牛久小学校ヲ設クルニ当リ氏ノ居宅ヲ借リ受ケ氏ヲ聘シテ教育ノ任二当ラシメタリ」とあり。
→黒須嘉一郎は寺子屋から明治5年に牛久小学校を設け教育の任に就くと判明。
6. 牛久小学校ホームページを確認。
(6)牛久小学校ホームページ「学校要覧 PDF」
(http://www.ushiku.ed.jp/scms/admin93826/data/doc/1664253740_doc_94_0.pdf)
…「学校の沿革」に「明治4年 黒須一郎による寺子屋開設」「明治5年 学制発布 牛久小学校開設」とあり。明治5年に牛久小学校開設とはあるが、開設時の校長名なし。→「一郎」の名前見つかる。
※最終アクセス日2023年11月13日
7. 当館のレファレンス事例に参考資料がないか閲覧。レファレンス登録番「R1000965 茨城県牛久市の牛久小学校の変遷、あゆみについて調べている」のレファ事例から次の資料を確認。
(7)『地域が語る日本の近代 上』(東敏雄/岩田書院/2005.5)
…p82「明治8年『文部省第三年報』には、(中略)牛久学舎(中略)の記載がある」「茨城県は、新治郡から移管した私塾を、すべて私立学校として扱った」「10年には牛久と岡見も公立小学校となった。このとき、これら小学校は、教員こそ各校男1名であった」とあり。参考資料として『土浦市史』の記載あり。
→牛久小学校は明治10年に公立小学校となり、教員は男1名と再確認。学校主名はなし。
8. (7)より、牛久市域は当時、新治郡(現在の土浦市)とあったので、次の資料を確認。
(8)『土浦市史』(土浦市史編さん委員会編集/土浦市役所/1975)
…p789-796「初等教育の発達」に関連する資料なし。
9. 茨城県の資料にもあるのではと考え、茨城県郷土資料の棚をブラウジング。
(9)『茨城県史 市町村編 3』(茨城県史編さん市町村史部会編/茨城県/1981)
…p528「牛久町」の項に、「旧牛久村では、ごく初期に教師黒須嘉一郎宅を教場として牛久小学校が、明治12年に得月院に城中小学校が設立される」
…「新治県自体も当初、寺子屋・家塾を前提として小学校創設を考えていたらしい。県は、明治6年初めに『筆学教師或は素読指南抔と唱へ、村児を教育致し来りし者』に対しては、今後県が検査した上で開業許可を与える、さらに成績優秀な者は官立小学校の教員に抜粋するとの達を出していた」
…「牛久小学校の初代の教師黒須嘉市郎は、維新当時、牛久に寺子屋の教師であり」と記載あり。
→新治県では寺子屋・家塾から小学校創設。牛久小学校の初代の教師黒須嘉市郎の名もあり。
10.資料には「学校主」とはあるが、「校長」とは書かれていないので、「学校主」について調べる。
(11)『日本国語大辞典 1』(小学館国語辞典編集部編集/小学館/2006.1)
…p1890「校主(こうしゅ)」の項に、「学校の経営責任者。主に私立学校にいう」とあり。「学校主」については記載なし。
…p1913「校長」の項に、「学校長」とあり。「学校主」の記載なし。
→「校主」は主に私立学校の経営責任者と判明。
11. 請求記号「R370」(教育)の棚をブラウジング。「校長」について調べる。
(12)『現代教育学事典』(青木一[ほか]編/労働旬報社/1988.10)
…p282「校長」の項に、「1886年(明治19年)年以来、学校にはこの職務がおかれている」と記載あり。
(13)『現代教育史事典』(久保義三[ほか]編著/東京書籍/2001.12)
…p181「校長」の項に、「公立学校長を最初に法令で規定したのは、1881年の太政官達第52号『府県立町村立学校教員並ニ准官等』においてである」と記載あり。
→1872年(明治5年)と1877年(明治10年)に「校長」の職務はおかれていないと判明。
→追加調査で確認。
(5)より、明治5年に設立した牛久小学校の学校主は黒須嘉一郎。
以上より、黒須「加市郎」「嘉市郎」「嘉一郎」は同一人物。私立、公立共に初代の学校主は黒須嘉市郎(嘉一郎・加市郎)。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 10版)
- 日本 (291 10版)
- 参考資料
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- B10128551 創立120年 牛久市立牛久小学校 牛久市立牛久小学校 1992
- B10130545 牛久市史 近現代1 牛久市史編さん委員会/編 牛久市 2001.1 213.1
- B10130284 牛久市史料 近代2 牛久市史編さん委員会/編 牛久市 1997 213.1
- B10295542 茨城県史 市町村編 3 茨城県史編さん市町村史部会/編 茨城県 1981 213.1
- 牛久小学校ホームページ「学校要覧」の「学校の沿革」 http://www.ushiku.ed.jp/scms/admin93826/data/doc/1664253740_doc_94_0.pdf 2023年11月13日
- キーワード
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- 牛久小学校
- 初代校長
- 学校主
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000346565