レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年03月15日
- 登録日時
- 2019/02/28 14:28
- 更新日時
- 2019/02/28 14:28
- 管理番号
- 20130315-2
- 質問
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解決
龍造寺氏と柳川の合戦はいつか
- 回答
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参考資料によると、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が柳河城を取り囲んだとされるのが天正8年3月13日。蒲池鎮並(かまちしげなみ)が降伏したとされるのが天正8年11月28日。また、隆信が鎮並を肥前に呼び出し謀殺したのは天正9年5月29日(もしくは28日夜)と書かれている。
(参考文献・掲載箇所)
『旧柳川藩志』第7節 室町戦国時代 p113
(略)天正8年3月13日 隆信の子鎮賢及び鍋島直茂兵2万を率ひ柳河城を囲む、城主蒲池鎮並橋を断ち濠を深くし、沖端川には逆茂木乱杭を設け籠城す。之を囲むこと数月なるも城堅固にして抜くこと能はず。田尻氏の仲裁によりて和睦成る。(以下続くも日付等の記載なし)
『龍造寺隆信』
蒲池鎮並の謀叛 p325(『旧柳川藩志』記載の件より続きあり)かく鎮並軍も籠城三百余日に及び、ようやく疲弊の色が見えてきた。そこで十一月二十七日田尻鑑種がさまざまな謀略をもってなだめすかしたので、翌十一月二十八日、鎮並方は龍造寺鎮賢の陣にいたって和を乞うた。(略)
蒲池鎮並を誘殺す p339-341 天正八年(一五八〇)十一月二十八日、蒲池鎮並は降伏したが、翌九年(略)、五月下旬、田原伊勢守・秀島源兵衛に委細をふくめて柳河に派し、「肥前にまかり越されたし、そのときは須古の新館で猿楽など興行いたさん」と伝えさせた。(略)出発の日を『肥陽軍記』『龍造寺記』などは二十八日としている。(略)二十九日未明に須古を目指して出発した。蒲地氏の家伝は二十八日とするが、これは夜明け前であったため二十八日よるとしたのかもと思われる。蒲地鎮並が与賀馬場に出ると、社前に小河信貫・徳島長房以下多勢が待ち伏せており、四方から取り巻いた。(略)堤左馬丞(允)のために討ち取られた。
『肥陽軍記』
p201 (略)天正九年(一五八一)五月二十八日、鎮漣は田原、西岡をさきに立てて、佐賀城に着き給うた。(以下続くも日付等の記載なし)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219)
- 参考資料
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- 『旧柳川藩志 復刻』渡辺 村男/著 柳川山門三池教育会/編纂 青潮社 1980
- 『龍造寺隆信 五州二島の太守』川副 博/著 川副 義敦/考訂 佐賀新聞社 2006.10 4-88298-161-0
- 『肥陽軍記 日本合戦騒動叢書 5』原田 種真/著 勉誠社 1994.6 4-585-05105-8
- キーワード
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- 佐賀県(さがけん)
- 龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)
- 蒲池鎮並(かまちしげなみ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000252289