レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年08月28日
- 登録日時
- 2013/12/07 17:40
- 更新日時
- 2013/12/07 17:40
- 管理番号
- 相橋-H25-067
- 質問
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解決
町田市と相模原市の「相原」は何故、同じ町名なのか知りたい。
また、町田は昔、神奈川の一部だったというが、それは本当か知りたい。
- 回答
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調査経過を伝えるとともに、①~③の資料を提供した。
- 回答プロセス
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検索エンジンGoogle(http://www.google.co.jp/ 2013/09/08 最終確認)でキーワード“町田 神奈川 理由”で検索した結果、次のサイトが見つかった。
OKWave(http://okwave.jp/qa/q1145396.html 2013/09/08 最終確認)
この記事によると、当時の東京都が安全な水(上水道)を確保するために、町田を含む三多摩を神奈川から編入させたらしい。
また、「境川の影響ではないか」とのコメントがあった。
郷土資料の棚をブラウジングし、境川に関する情報を探した結果、次の資料がみつかった。
①『境川流域ガイド』 相模原市水みどり環境課 2010 (自館請求記号:K1-29)
p2に、「境川は東京都と神奈川県の都県境を流れています。江戸時代には境川が相模国と集落の中を流れる川でした。境川の両側に相原、小山、鶴間など同じ地名が残っているのもそのためです。」との記述があった。
②『境川流域民俗調査報告書』 町田市立博物館/編 町田市立博物館・相模原市立博物館 2006 (自館請求記号:K1-38)
調査の経緯、町田市小山地区の川と水をめぐる民俗、史料に残された境川に関する記述などが詳しくまとめられている。
「境川」という名称は武蔵国と相模国の両国境になった文禄3年(1594)の総検地後であり、それ以前の別名として高座川(田倉川、太久良加波、太加久良川)などがある。相州高座群と武州多摩郡との境は多摩郡の内山が続いたあたりで東方に2~3町許隔てており、当時は高座郡の中を流れている川であったことの名残。その後、いつかは不明なものの境川を以って国境としたために川の両側に同じ村名があるのだろう。」とある。この国境にあたる地域の境川に面している江戸時代の旧村を上流から左岸、右岸で記している。
②の資料の情報源として記述のあった次の資料を確認したが、関連する記述は見つからなかった。
『新編相模国風土記稿 第3巻』 雄山閣出版 1998 (自館請求記号:K0-29)
『新編相模国風土記稿 第5巻』 雄山閣出版 1998 (自館請求記号:K0-29)
『研究年報 第6号』 法政大学多摩地域社会研究センター/編 法政大学多摩地域社会研究センター 2002 (自館請求記号:K9-36/多摩地域)
『境川流域合同調査報告』 相模原市教育委員会社会教育部社会教育課博物館準備係 相模原市教育委員会 1991 (自館請求記号:K-51/空)
地名に関する資料のある棚をブラウジングした結果、次の資料が見つかった。
『角川日本地名大辞典13 東京都』 角川日本地名大辞典編纂委員会/著 角川書店 1998 (自館請求記号:R291)
『角川日本地名大辞典14 神奈川県』 角川日本地名大辞典編纂委員会/著 角川書店 1984 (自館請求記号:R291)
③『さがみはらの地名』 相模原市教育委員会/編 相模原市教育委員会 1990 (自館請求記号:K1-29)
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 『境川流域ガイド』 相模原市水みどり環境課 2010 (自館請求記号:K1-29)
- 『境川流域民俗調査報告書』 町田市立博物館/編 町田市立博物館・相模原市立博物館 2006 (自館請求記号:K1-38)
- 『さがみはらの地名』 相模原市教育委員会/編 相模原市教育委員会 1990 (自館請求記号:K1-29)
- キーワード
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- 相模原
- 相模川
- 町田
- 相原
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 相模川 郷土 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000141636