レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20230424
- 登録日時
- 2023/11/03 00:30
- 更新日時
- 2023/11/15 09:13
- 管理番号
- 30002276
- 質問
-
未解決
治田鉱山について
①岡田将監はいつ頃に奉行を務めていたのか。どんな事績を挙げたのか。
②治田は加納藩の領知になっているが、何年から何年までか。どうして加納藩が納めることになったのか。
- 回答
-
(1)
『員弁史談 限定』近藤 実/著 員弁郡好古史研究会 1980
p459「治田七ケ村が天領になったのは慶長六年(一六〇一)幕府が美濃笠松の郡代岡田将監にこの地を支配させたのが始まり」とあります。
『治田村誌』近藤 杢/編 1982
p162「治田七ケ村が幕府領となったのは、今から三百五十年ほど以前の慶長六年で、幕府が美濃笠松(羽鳥郡内)の郡代岡田将監にこの地を司配せしめたのが始まり」「慶長十八年治田郷代官は水谷九左衛門、山御奉行(御役御勘定)は岡田将監・花房志摩守であった」とあります。
元和元年(1615)から寛永三年(1626)までは桑名、姫路藩領となり、寛永四年(1627)から幕府領に戻りますが、その事に関しp169に「美濃笠松の陣屋(郡代出張所)の支配下に入り(略)御役御勘定御山奉行は岡田伊勢守であった。」とあります。
「第九章 治田の人物」に「岡田将監善長」があり、美濃笠松初代の郡代であり治田郷が元和元年まで支配を受けたこと、政治は構成厳格で、美濃では鬼将監と言われたことなどが記載されています。
『北勢町史』北勢町町史編さん委員会/編集 北勢町 2000
「第七節 治田鉱山」のp349に「慶長年代の岡田将監(山奉行勘定役)による高付け検地以来」という記述があります。
「伊勢治田銀銅山史の研究」小葉田 淳(『史林 58巻2号』)
当館は未所蔵ですが、インターネットで読むことができます。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238228/1/shirin_058_2_153.pdf
岡田将監が慶長18年(1613)、寛永4年(1627)に山奉行であったこと、慶長年間または元和元年に検地を行ったことが記載されています。(p5-p8)
(2)
『治田村誌』近藤 杢/編 1982
p173「享保十一年(二三八七)、治田郷は加納遠江守の所領となり、明治四年の廃藩まで、百四十六年間その支配下に属し」とあります。なお、「享保十一年(二三八七)」は『治田村誌』の記述のままです。
『北勢町史』北勢町町史編さん委員会/編集 北勢町 2000
p257に「治田郷八か村は享保一一年(一七二六)正月一一日、加納遠江守久通の所領となって、以来明治三年一〇月一三日度会県管轄となるまで(略)その支配下にあった」とあります。また同じページに、徳川吉宗の将軍就任とともに幕臣となった加納久通に、紀州藩時代と同様の禄高が幕府から渡されることになった旨の記述があります。
『四日市市史 第17巻(通史編 近世)』四日市市/編集・発行 1999
p253に「享保一一年(一七二六)には、享保元年以来の精勤により、(略)八〇〇〇石を加増され、本高と合わせて計一万石の大名となった。」とあり、加増された領地として「治田新貝・治田新町」の名前があります。
・『四日市市史研究 第3号』四日市市市史編さん室 1990
p99-134「吉宗取り立て大名加納氏の所領構成-東京大学史料編纂所加納氏旧蔵史料を
中心に-(大石学)」という論文の一項p106-119「二 将軍吉宗と九代久通」で加納久通に領地が与えられた経緯が詳しく書かれています。p114-119「(三)久通の大名昇進」が治田領が久通に与えられた部分となります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000340506