レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20210220
- 登録日時
- 2024/01/11 00:30
- 更新日時
- 2024/01/11 00:30
- 管理番号
- 0001004172
- 質問
-
解決
平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)の墓の場所についてわかる資料はあるか。
- 回答
-
以下の資料を案内した。1734年に朝敏が処刑されたあと、多良間島に流罪となった次男の朝助がそのまま永住し、その子孫が建造した墓がある。1935年にこの「里之子墓」に朝敏夫妻を含めた遺骨が移され現在に至っていることがわかる。
①
2020年12月5日付琉球新報朝刊24面に「「手水の縁」村民魅了 多良間、国指定保持者ら公演 県文化振興会 村ゆかりの演目」の記事があり、その中で「作者の平敷屋朝敏の一門の墓「里之子墓」が村仲筋にあり、朝敏夫妻の他5人の遺骨が納められている。」と記載されている。
②
2019年8月11日付沖縄タイムス朝刊24面に「墓前で「手水の縁」 多良間 平敷屋朝敏偲ぶ会」の記事があり、その中で「…「平敷屋朝敏を偲ぶつどい」…が…村仲筋の里之子墓前で開かれた。…朝敏は1734年、三司官蔡温を批判した「平敷屋・友寄事件」で処刑され…長男の朝良は水納島(多良間村)に流刑、次男の朝助も4年後、多良間島に流刑された。朝敏の4代目の子孫のころに墓が造られ、1935年に朝敏ら5人の遺骨を墓に納めたと伝えられている。」と記載されている。
③
『村の歴史散歩』(渡久山 春好/編,池城 三千雄/編 改訂 多良間村教育委員会 2021(令和3).3)
p29-30「里之子墓(さとぬしばか)」の項目で、p29に「平敷屋朝敏が一七三四年処刑されその長男朝良が水納島に流され、一七四一年、次男朝助が多良間島に流されたと伝えられている。朝良がいつ多良間島に移り住むようになったか定かでない。平敷屋朝敏等五人の遺骨が里之子墓に移された昭和十年以前は…」と記載されている。
④
『多良間村の文化財』(多良間村文化財保護委員会/編 改訂 多良間村教育委員会 2021(令和3).3)
p53-54に「里之子墓(さとぬしばか)」の項目があり、所在地のほか、「一七三四年彼は…安謝港で八付の刑に処せられ…長男朝良(十五才)は多良間村の水納島に流刑され、次男朝助(十一才)は…四年後一七三八年多良間島に流刑された。…朝助は島の女をめとって永住し、子孫も繁昌した。この里之子墓はその一族の墓である。朝敏の四代目の子孫のころ建造されたと伝えられている。一九三五(昭和十)年朝敏等五人の遺骨が喜納利八(饒平名長建)と大宜味某によってこの墓に納められ…」と記載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 村の歴史散歩 (p29-30「里之子墓」)
- 多良間村の文化財 (p53-54「里之子墓」)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000344499