レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2023/03/31 17:44
- 更新日時
- 2023/12/19 11:26
- 管理番号
- 0001003622
- 質問
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解決
『牡丹社事件』の関連資料に「貢納船」という船が出てくるがどんな船か知りたい。
- 回答
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以下の資料を案内した。
船の種類としては「馬艦(マーラン)船」であり、役割としては「(首里への)貢納船」という使われ方をしているものと考えられる。また、その文様については資料②や④と同様のものであると考えられる。
①
『牡丹社事件マブイの行方 日本と台湾、それぞれの和解』(平野 久美子/著 増補版 集広舎 2021(令和3).5)
p41 「当時、貢納船として使われていたのは「馬艦(マーラン)船」と呼ばれる三本マストの中国式の大型ジャンク船だ…四隻の船団のうち…遭難にあったもう一隻のほうは比較的大きな十二反帆(百二十石)の馬艦船で…」とある。
②
『博物館紀要 沖縄県立博物館・美術館 第10号(2017) 』(沖縄県立博物館・美術館/編 沖縄県立博物館・美術館 2017(平成29).3)
p51-64 「沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」と関連資料」(三枝 大悟/著)
p58-60 「4 『琉球人漂着一件』所収の情報からみた「琉球船の図」の考察」で、「琉球船の図」(1798年に銚子に漂着した琉球船)について、船の科学館所蔵の「絵図 安永九年房州朝夷浦漂着南京船図」(1780年(安永9)年に現在の千葉県安房郡千倉町に漂着した中国船を描いたもの)と同様、もしくは類似のものであることが考えられると述べている。
p58右段下から5行目 漂着した琉球船は「大嶺筑登之親雲上が船主の12反帆馬艦船」であると記載されている。この2つの図では、進貢船に似たような文様であることが確認できる。また、p63の注8において「馬艦船」は、中国のジャンク船の技術をもとに、18世紀の前半に琉球王国で普及した帆船である…また、ここでいう「近代の馬艦船」とは、山原船とも呼ばれ、沖縄本島の北部と中南部を結んだ小型船を指す」とある。
③
『沖縄の舟と船 海に生きる民にとって最大の道具は舟・船だった 与那城町海の文化資料館/編集 与那城町海の文化資料館 2004.7)
p12 「沖縄の山原船と平安座島のマーラン船」(p11-13)の中に「その山原船という意味は、沖縄本島北部の地域から薪や木材や竹材などの物資を南部地域の那覇まで運搬するため、その名称がつけられたと考えられています。しかし、不思議なことに平安座島の船大工は山原船を「マーランブニ」「マーランセン」と呼んでいます。」とある。
④
『沖縄タイムス』
2019年9月24日付 1面 「高知に伊波普猷新資料 1906年「沖縄新聞」寄稿 1854年琉球船漂着記録も 仲村研究員が確認」の記事があり、資料に描かれた馬艦船の絵図と「船尾側には船室を描き、「総じて黒色」との説明もある」というキャプションがある。
2019年9月24日付 22面 「琉球船 土佐に広く漂着 台風で千キロ流され 「随筆六」 名前や絵図記録」の記事があり「当時のマーラン船は、那覇の士族や有力な農民が船主となり、八重山や宮古から王府へ年貢を運んだ」とある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 牡丹社事件マブイの行方 日本と台湾、それぞれの和解 平野 久美子/著 増補版 集広舎 2021(令和3).5 (p41)
- 博物館紀要 沖縄県立博物館・美術館 第10号(2017) 沖縄県立博物館・美術館/編 沖縄県立博物館・美術館 2017(平成29) (p58-60、63)
- 沖縄の舟と船 海に生きる民にとって最大の道具は舟・船だった 与那城町海の文化資料館/編集 与那城町海の文化資料館 2004.7 (p12)
- キーワード
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- 牡丹社事件
- 貢納船
- 馬艦船
- マーラン船
- 山原船
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000331320