レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/04/11
- 登録日時
- 2014/04/12 00:30
- 更新日時
- 2014/04/19 13:34
- 管理番号
- 6001001296
- 質問
-
未解決
(1)「泉州七十九番小学」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
(2)「加賀田学校」は河内長野に同名校があるが、明治初期の同名校の後身校かどうか。
(3)大阪市北区の「盈進小学」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
(4)同西区?の「安治川小学校」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
(5)「四等助教」はどのような位置づけの教員であったのか、当時の教員職位を知りたい。
(6)「下出梅吉」「下出民義(梅吉の成人名)」の教員時代の人事関連記述があれば欲しい。
- 回答
-
(1)「泉州七十九番小学」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
残念ながら、「泉州七十九番小学」についての情報を得ることはできませんでした。
堺県を含め、現在の大阪府域の教育の歴史については『大阪府教育百年史 第1~4巻』に多くの情報と史料が掲載されています。
その第1巻によると、当時の堺県の小学校の設置状況は以下のようになっています。
・『大阪府教育百年史 第1巻 概説編』より
明治6年4月、堺県では学制の発布とともに小学校を増設、泉州では第一番小学から第四十五番小学まで設置。
※小学の番号は「およそその設置の月日順によっている」ようです。(P130)
明治6年7月、さらに小学校の増設を計画。泉州では35校が増設されることになった。
明治8年5月、布達により、従来の番号制度は廃止され、地名により学校名がつけられるようになる。
当資料には泉州第一番小学から第四十五番小学までは全ての学校名が掲載されています。
しかし、『大阪府教育百年史 第2巻 史料編1』も含めて確認いたしましたが、増設校については学校名や設置された村名が全て掲載されておらず、七十九番小学は見つけられませんでした。
次に、「堺から4、5里」の距離をヒントに調査を行いました。
堺の中心部から16~20kmの範囲(少し幅広くとって12~25km)のエリアで「河内」ではなく「泉州」に含まれる市町村は以下の通りです。
堺市、和泉市、高石市、泉大津市、忠岡町、岸和田市、貝塚市、熊取町、泉佐野市
そして、これら市町村が発行している市町村史(『堺市史』、『泉大津市史』、『忠岡町史』など)を確認しましたが、「泉州第七十四番忠岡小学校」などは見つかるのですが、「七十九番」についてはどうしても発見することができませんでした。
その他、堺県について、あるいは明治期の学校についての資料を確認しましたが、どうしても「泉州七十九番小学」を見つけることができませんでした。
番号制度が明治8年5月で廃止となり、「泉州七十九番小学」と呼ばれていた期間が2年にも満たないことも影響しているかもしれません。
『近代的「学校」の誕生』には、明治6年に増校となった小学は「正則の小学ではなく簡易な村落小学として設立されたのであった。<中略>簡易な村落小学として設立するので、両者を混同させぬように一般に知らさない」とも書かれています。(P173-174)
<泉州第七十九番小学調査資料>
※【 】内は大阪府立図書館請求記号です。
・「堺県学区取締山中善治の学事日誌 (上)(下)」(『堺研究』24、25号所収【328/405/#】)
・『文部省年報 [復刻版]』第3(明治8年)、第4(明治9年)1冊【192/319/#】
・『堺縣教員録』藤谷春致編輯 阪田一郎 1880.2 【354.6/14/#】
・『明治の小学校 学制から小学校令までの地方教育』大森久治著 泰流社 1973【190.1/551/#】
・『岸和田に於ける学校制度の変遷』佐納秀雄著 岸和田市教育委員会 1952 【192/779/#】
・『堺市教育一班』堺市役所 1925 【192/1185/#】
・『堺県法令集 2』山中永之佑編 羽曳野市 1993 【318.1/34N/2】
・『近世民衆教育運動の展開』津田秀夫著 御茶の水書房 1978.3 【190.1/713/#】
・『創立百周年記念誌』堺市教育会 1987 【190/2811/#】
・『堺市教育100年のあゆみ』堺市教育委員会事務局学校指導課内堺市教育 1973 【190.1/543/#】
(2)「加賀田学校」は河内長野に同名校があるが、明治初期の同名校の後身校かどうか。
※「加賀田学校」の名称では見つからず、「加賀田小学」として調査をいたしました。なお、明治初期の加賀田において「加賀田小学」以外の学校の記述は見つかりませんでしたので、こちらを指しているとみてよいかと思います。
『河内長野市史 第3巻 本文編 近現代』に明治期の河内長野市の学校史がでています。関係部分を引用いたします。
「河州第百六番小学 明治6年10月開校 錦部郡加賀田村(元泉福寺廃跡地) 加賀田村、新町村、小塩村の半分、石仏村、唐久谷村」(P174)
「小学番号廃止」の項)をみると、次のように記載されています。
「明治八年五月、堺県では小学名称を学校所在の町村名を用いることにした。(中略)河州第百六番小学-加賀田小学」(P176)
明治19年に小学校令により加賀田小学校が加賀田尋常小学校となったとあります。(P364)
さらに、河内長野市立加賀田小学校の公式ホームページに沿革も紹介されています。
こちらにも、「河州第106番小学として創立」との文言があり、後身校とみることができるのではないでしょうか。
(参考)
残念ながら当館に所蔵はありませんでしたが、河内長野市立図書館に、次の資料の所蔵があります。
・『加賀田小学校の百年』加賀田小学校創立百周年記念事業委員会 1973
(3)大阪市北区の「盈進小学」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
・『明治の小学校』「(明治19年)4月に中等・高等科のみの盈進小学校を設立し、北区の中等科・高等科の児童はすべてここに収容し」とあります。(P294)
・『北区誌』
「第一盈進高等小学校
明治19年小学校令の公布に伴い区内の高等科児童を収容するため、公立盈進小学校とし西天満小学校内に設置された。26年12月菅原町に移って盈進高等小学校と称し、42年大火に罹災したので翌43年、此花町二丁目及大工町に校舎が新築された。
第二盈進高等小学校はじめ西分校として中之島五丁目旧丸亀藩邸にあったが、31年3月玉江町二丁目に新築校舎が成り、34年第二盈進高等小学校として独立したが、大正3年上福島三丁目に移転した。
第三盈進高等小学校
明治19年今井町旧川崎小学校で東分校として開校したが、35年天満橋筋二丁目に新築移転したが、北区の大火後に廃止された。<中略>その後、財産区(学区)は三校の盈進高等小学校を大正14年3月末限りで廃止し」と記述されています。(P317-318)
(4)同西区?の「安治川小学校」の所在地・創設時期・現校名・初期の沿革を知りたい。
『消えたわが母校』に安治川小学校についての情報が掲載されています。(P242-245)
以下はその概略です。
・明治7年、北大組第二十区小学校として発足
・西区安治川通南一丁目の源兵衛渡しに近い三百坪足らずの地に小学校を設立した。校名を北大組第二十区小学校と称した。
・安治川小学校を名乗るのは翌明治8年のことである。
・明治20年、安治川尋常小学校に。
・昭和19年4月、廃校。
・跡地に安治川女子工業学校が設置された。安治川小学校の生徒は、九條北小学校、本田小学校、波除小学校へ編入。
・安治川女子工業学校は戦争で焼け、跡地は昭和25年2月に大阪倉庫KKに売却されることになった。
(5)「四等助教」はどのような位置づけの教員であったのか、当時の教員職位を知りたい。
『大阪府教育百年史 第1巻』の「教師の登用とその待遇」の項に明治初期の堺県の教員について概説されています。(P231-248)
そのうち、「四等助教」について参考となるような情報は以下のとおりです。
「はじめ教師の職名は、その学力に応じて訓導・訓導補・助教に分類されていたが、明治7年ごろ、堺県和泉の国では415人中、17人の訓導、同じく河内の国でも502人中、わずか13人の訓導しかいなかった。このように、当時の小学校では大部分が助教クラスであった。学区取締岡田伊一郎が担当した南河内の8つの小学校の例でみると、明治6年六月ないし八月当時の教員は1校あたり2、3名で、その職名および給料(月額)はつぎの通りである。準一等助教(8円)、二等助教(7円)、準二等助教(5円60銭)、三等助教(5円)、出仕(3円)<中略>同年四月に任命された和泉の国七、八、九、一〇区の六つの小学校の例で見ると、教員はやはり一校2、3人の割で、その職名は准一等・准二等・三等・准三等の助教であった(植木家文書)。」(P233)
さらに、助教クラスは当時薄給であったために、月給の前借をするものがしばしばあり、明治7年8月には月給の前借を禁止する通達が出ている、とあります。
次に、明治8年では、「当時堺県下の小学校は280余校、生徒数3万余人に対し、600余人の教員がいるが、そのうち上等(五等以上)252人、下等(六等以下)354人で、上等教員の過半は他府県の出身であり、とかく定着しない傾向」がある、四等助教は上等教員と位置付けられているようです。(P238)
P239には、明治8年2月、堺県発表の小学校教員の職名および給料(月額)の一覧表が掲載されています。
・訓導は一等(30円)~準五等訓導(10円)までの10段階
・助教は一等(10円)~七等(4円)までの7段階、および助教見習(3円)
※四等助教の月給は7円でした。
明治8年の教員職制については、以下のように記述されています。
「従来の訓導・訓導補・助教という職制を改めて訓導・準訓導・助教とし、月額も増額してはいるが、上厚下薄の感が強い。訓導の本官は官立師範学校の卒業者をもって任ぜられ、準訓導および助教は、学力および教法に長じたものをもって任ぜられることになっていた(堺市立図書館、覚応寺、小川・中江家文書)。訓導は依然エリートであり、五等訓導以上は判任官待遇を受けた。」(P238)
(6)「下出梅吉」「下出民義(梅吉の成人名)」の教員時代の人事関連記述があれば欲しい。
今回の調査の中で、大阪府および堺縣の教育史資料、河内長野市史や大阪市史など、下出梅吉(下出民義)氏ゆかりの場所の歴史資料を確認致しましたが、残念ながら発見する事はできませんでした。
特に、当館で所蔵しております『堺縣教員録』が明治13年の発行であり、下出梅吉さんの勤務時期と時期が若干ずれてしまっているため、人事情報も学校情報も見つけ出すことができませんでした。
堺市立図書館の蔵書も調べてみたのですが、インターネットで調べた限りでは、『堺縣教員録』ももっとも古くて明治11・12年となっております。ただし、一度堺市立中央図書館へご相談されるのも、良いかもしれません。額してはいるが、上厚下薄の感が強い。訓導の本官は官立師範学校の卒業者をもって任ぜられ、準訓導および助教は、学力および教法に長じたものをもって任ぜられることになっていた(堺市立図書館、覚応寺、小川・中江家文書)。訓導は依然エリートであり、五等訓導以上は判任官待遇を受けた。」(P238)
(6)「下出梅吉」「下出民義(梅吉の成人名)」の教員時代の人事関連記述があれば欲しい。
今回の調査の中で、大阪府および堺縣の教育史資料、河内長野市史や大阪市史など、下出梅吉(下出民義)氏ゆかりの場所の歴史資料を確認致しましたが、残念ながら発見する事はできませんでした。
特に、当館で所蔵しております『堺縣教員録』が明治13年の発行であり、下出梅吉さんの勤務時期と時期が若干ずれてしまっているため、人事情報も学校情報も見つけ出すことができませんでした。
堺市立図書館の蔵書も調べてみたのですが、インターネットで調べた限りでは、『堺縣教員録』ももっとも古くて明治11・12年となっております。ただし、一度地元の図書館へご相談されるのも、良いかもしれません。
[事例作成日:平成26年2月28日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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①については、自伝に「堺から四、五里の処であった」との記述がある。
⑤「下出梅吉/泉州七十九番小学四等助教申付候事/明治八年三月 堺県」の辞令あり。
④では校長を勤められていた。
なお、下出民義(梅吉)氏は名古屋在「東邦学園」の創設者です。
- NDC
- 参考資料
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- 大阪府教育百年史 第1巻 大阪府教育委員会
- 大阪府教育百年史 第2巻 大阪府教育委員会
- 近代的「学校」の誕生 福島/雅蔵∥著 創元社
- 河内長野市史 第3巻 河内長野市史編修委員会∥編集 河内長野市
- 明治の小学校 大森/久治∥著 泰流社
- 北区誌 大阪市北区役所∥編集 大阪市北区役所
- 消えたわが母校 赤塚/康雄∥著 柘植書房
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- その他
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000152066