レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024/01/24
- 登録日時
- 2024/03/01 00:30
- 更新日時
- 2024/03/01 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-230232
- 質問
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解決
紫式部は清少納言のことを批判しているようですが、紫式部と清少納言が顔を合わせるようなことはあったのでしょうか。
- 回答
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下記資料の記述をご案内しました。※【 】内は当館請求記号です。
資料1 宮崎荘平著『清少納言と紫式部 : その対比論序説』 朝文社, 1993年【910.23/セ1】
pp.16-18 「二 『紫式部日記』の清女批判とその位置づけ」-「辛辣な批判」の項
p.17「(前略)紫式部は清少納言と朋輩の関係にはなかった。同じ一条朝の内裏とはいえ、皇后定子後宮の女房であった清少納言は、中宮彰子後宮の女房として紫式部が出仕する数年前に、既に宮仕えを辞していたとみられるので、出仕先で二人が顔を合わせるようなことはなかったはずである。(後略)」
- 回答プロセス
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調査に先立ち、紫式部と清少納言の出仕時期について確認を行いました。
参照資料1 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』8, 吉川弘文館, 1987年【210.03/コ4/8R】
p.225「せいしょうなごん 清少納言」の項に、清少納言が出仕した時期について記述がありました。
「(前略)定子のもとに正暦3(992)、4年に出仕。(中略)長保2年(1000)には定子の崩御があり、清少納言の前途に重大な影がさす。定子の遺児に引きつづき仕えるか、己が家に籠ったかである。(中略)死没年時までにまだ二十数年間あるが、確実な史料はなく具体的な動静は判明しない。(後略)」
参照資料2 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』13, 吉川弘文館, 1992年【210.03/コ4/13R】
p.677「むらさきしきぶ 紫式部」の項に、に紫式部が出仕した時期についての記述がありました。
「(前略)寛弘2年(1005)12月29日一条天皇中宮彰子(上東門院、藤原道長の長女)の宮廷に召し出された。長和2年(1013)秋ごろ、一旦宮仕えを退いたらしいが寛仁2年(1018)ごろ再び彰子に出仕、翌3年正月五日には取次ぎ女房として姿を見せる。それ以後のことは明らかではない。(後略)」
また、紫式部と清少納言の関係を確認するため、下記資料を参照しました。
参考資料3 萩谷朴著『紫式部日記全注釈』下巻, 角川書店, 1979年【915.35/ハ1/2】
pp.237-252 「第66節 清少納言こそ、したり顔」の項
pp.245-252 「解説」-「紫式部と清少納言」の項
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本文学 (910 9版)
- 参考資料
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- 宮崎 荘平/著. 清少納言と紫式部. 朝文社, 1993.4【910.23/セ1】:
- 国史大辞典編集委員会/編. 国史大辞典 8. 吉川弘文館, 1987.10【210.03/コ4/8R】:
- 国史大辞典編集委員会/編. 国史大辞典 13. 吉川弘文館, 1992.4【210.03/コ4/13R】:
- 萩谷 朴/著. 紫式部日記全注釈 下巻. 角川書店, 1979【915.35/ハ1/2】:
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000346756