レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年09月24日
- 登録日時
- 2022/12/17 10:45
- 更新日時
- 2022/12/22 18:06
- 管理番号
- 0000111011
- 質問
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山口県の干拓の歴史(室町時代以降)と、それに伴う社会等の変化について書かれた資料を探している。
- 回答
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山口県の干拓の歴史とその影響等についてまとめた資料として以下がある。
なお、個別の地域の干拓に関する資料(市町村史・誌など)は調査対象としなかった。
資料1『防長産業の歩み』
江戸時代を中心に、農業など各種産業の歴史をまとめたもの。「第1章 米作りの伝統」に、古代中世から明治以降までの山口県での米作の歴史がまとめられている。干拓については、主に「2 江戸時代の米作り」の「(2)新田開発」(p19-27)に記載がある。新田開発(萩藩では「開作」と呼ばれた)の大部分は干拓(「海開作」)であったとし、主要な開作を時系列でまとめた「防長両国における藩政時代の開作」がある。
また、p19に、慶長5年(1600年)と慶長10-15年(1605-1615年)に行われた慶長検地では4万7,290町余であった田畑の総面積が、明治6年(1873年)の地租改正時に7万9,679町余となっており、この増加は、ほとんど新田開発の結果としている。同様に、p37では、江戸時代の防長両国の人口増加率(武士階級を除く)は、全国の場合よりも著しく高く、これは「農耕技術の進展と耕地拡大により農業生産力が高まったことに関連するといわれている」とある。特に、瀬戸内側の開作地の拡張によるものであり、開作地の免租期間が長いことや干鰯等の肥料が積極的に投入されたことが生産力を高め、人口増加に寄与したとある。
資料2『山口県の土地改良1976』
p79-80に、県内の土地改良事業の沿革として、江戸時代の土地改良事業について簡単にまとめている。新田開発のための干拓のほか、塩田や潅水施設の開発を含む主な土地改良事業を列挙している。
資料3『山口県農協連二十年史』
p4-9に、防長両国の中世・近世の干拓について簡単にまとめている。戦国時代末期の天正年間(1573-1591年)に三田尻(防府市)で塩田・開作の造成があったこと、江戸時代に入って元禄16年(1703年)までの100年間に約100件、慶應3年(1867年)までに約200件の開作が行われたことなどが記載されている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 農業工学 (614 9版)
- 参考資料
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1.山口県立山口博物館 , 山口県立山口博物館. 防長産業の歩み. 山口県教育委員会, 1981.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I065148382-00 (p19-27) -
2.山口県農林部耕地課 編 , 山口県. 山口県の土地改良 1976. 山口県, 1977.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001327941-00 (p79-80) -
3.山口県農協連二十年史編さん委員会 編. 山口県農協連二十年史. 山口県農協連二十年史編さん委員会, 1972.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001148359-00 (p4-9)
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1.山口県立山口博物館 , 山口県立山口博物館. 防長産業の歩み. 山口県教育委員会, 1981.
- キーワード
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- 干拓--山口県
- 山口県--農業--歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000325914