レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/04/13
- 登録日時
- 2021/12/29 00:31
- 更新日時
- 2024/03/30 00:41
- 管理番号
- M21041513414742
- 質問
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和気町和気出土の銅鐸についての資料を見たい。また、現在銅鐸そのものを見ることはできるのか。
- 回答
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以下、銅鐸についての資料を刊行年代の古い順にあげる。
江戸時代の藩の記録である資料①『撮要録 下巻』には、弘化2年(1845)に和気村で掘り出された古銅器(銅鐸のこと)を嘉永5年(1852)に村の本成寺に預けた(後年必要の際には差し出すようにとの条件で)とある。
資料②「考古資料(備前備中の銅鐸)」では、「嘉永五年土地人民の願により和気郡和気村本成寺に蔵す。」とあるが、刊行時点で現物を確認しているかどうかは不明。
資料③『銅鐸の研究 資料編』には、大正13年(1924)2月の聞き書き調査によると、銅鐸は一度お上に納めたが、後年掘り出した嘉平に下げ渡しとなった後は不明で、本成寺に銅鐸があったという話は聞いたことがない、とある。
資料④「岡山県下発見の銅鐸」では、現物は散逸しているが写生図を入手できたとして図の紹介がある。
資料⑤『岡山県農地史』には、現存しないとして、写生図と説明がある。
資料⑥『和気の歴史』、資料⑦『和気郡史 通史編 上巻』には説明と写生図があるが、どちらも「現在」(刊行時に)現存しないとなっている。また、銅鐸を掘り出した嘉平は明治2年(1869)7月2日には死亡しているとある。
資料⑧『和気郡史 資料編 上巻』には、出土品の一覧に名前と「現存せず」とあるのみ。
資料⑨『吉永町史 通史編1』、資料⑩『吉備の考古学的研究 上』にも、現在は行方不明とある。
以上のことから、嘉永5年(1852)の下げ渡し以降、確実に現物が確認されたことはないことが分かる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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資料① 『撮要録 下巻』岡山 日本文教出版,1965,1122-2054p.参照はp.2044-2045.
資料② 若林勝邦「考古資料(備前備中の銅鐸)」『考古学会雑誌』第9号 考古学会,1897.参照はp.30.
資料③ 梅原末治『銅鐸の研究 資料編』 大岡山書店,1927,401p.参照はp.250-252.
資料④ 梅原末治「岡山県下発見の銅鐸」『吉備考古』第83号 吉備考古会,1951.参照はp.7-18.
資料⑤ 永山卯三郎『岡山県農地史』岡山 岡山県農地改革記録編纂委員会,1952,684p.参照はp.106-107.
資料⑥ 和気中学校『和気の歴史』和気町(和気郡) 和気町,1968,343p.参照はp.11.
資料⑦ 和気郡史編纂委員会『和気郡史 通史編 上巻』和気町(和気郡) 和気郡史刊行会,1981,211p.参照はp.96-99.
資料⑧ 和気郡史編纂委員会『和気郡史 資料編 上巻』和気町(和気郡) 和気郡史刊行会,1981,1681p.参照はp.10.
資料⑨ 吉永町史刊行委員会『吉永町史 通史編1』吉永町(和気郡) 吉永町,1990,1208p.参照はp.232-237.
資料⑩ 近藤義郎『吉備の考古学的研究 上』岡山 山陽新聞社,1992,581p.参照はp.443,521,530.
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資料① 『撮要録 下巻』岡山 日本文教出版,1965,1122-2054p.参照はp.2044-2045.
- キーワード
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- 銅鐸
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2021041513452914742
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢
- 登録番号
- 1000309719