レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/6/17
- 登録日時
- 2015/09/02 00:30
- 更新日時
- 2015/09/04 13:54
- 管理番号
- 2011006
- 質問
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未解決
麗興丸という船について調べている。
1912年に、韓国の光陽港(当時の名称は朝鮮の下浦港)から釜山港を経て、日本の下関港、又は近くの港の航路に就航していた。(当時は関釜連絡船があったので下関港の可能性が高い)
船舶のサイズは1,000トンから1,700トン位と推測される。当時、下浦港に停泊している写真1枚を持っているが、それ以外の資料があればほしい。
- 回答
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麗興丸について書かれている資料は見つからなかった。
日本船籍の船の要目を掲載している①を、1912年~1943年まで調べてみたが、麗興丸は掲載されていなかった。
(①には、朝鮮半島が日本の支配下にあった時代は、朝鮮籍の船も掲載されている)
「麗興丸」という名前の船はあったが、1930年建造34トンの木船で、船籍港は釜山(のちに全羅南道麗水邑に変更)、船主は磯本政一。
したがって、この「麗興丸」はお尋ねの「麗興丸」とは別の船であると思われる。
他に、②の大正年間のものや、③④⑤などを見てみたが、麗興丸という船名だけでなく、光陽(下浦港)という地名すら発見できなかった。
なお、麗水港と下関港の間に運航されていた昌福丸と慶運丸については、川崎汽船が運航していた。⑥にその記述があったが、これより以前のことについては触れられていなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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光陽市誌には、1938年下浦港が廃港になり、下関港との連絡船が運航中止になったことが書かれていた。
麗水市誌によると、1930年に光州-宝城-順天-麗水間の南朝鮮鉄道が開通したことにより、関麗航路(麗水港~下関港間)が開設された。関麗航路には昌福丸と慶運丸が就航し、麗興丸は朝鮮沿岸航路に配船されて、1942年、古い木船のため廃船になったらしい。
- NDC
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- 海運 (683 8版)
- 参考資料
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- ①「日本船名録」逓信省管船局編 帝国海事協会発行 年刊(RM.06/N77)
- ②「海事年鑑」 海事彙報社(年刊 大正8年版-昭和17・18年版を所蔵)(RM.05/Ka21)
- ③「韓国海運史 増訂版」孫兌鉉著 曉星出版社発行 1997年(M.2127/So41)
- ④「下関市史 市制施行以後」下関市市史編修委員会編 下関市役所発行 1958年(217/Sh54)
- ⑤「朝鮮郵船株式會社二十五年史」朝鮮郵船株式會社 1937年(M.2210/C54)
- ⑥「川崎汽船五十年史」川崎汽船株式会社 1969年(M.2210/Ka97)p.384-387
- キーワード
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- 船舶
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000179210