レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024/01/24
- 登録日時
- 2024/02/02 00:30
- 更新日時
- 2024/03/21 11:54
- 管理番号
- 16667076
- 質問
-
未解決
奈良県桜井市忍阪にある舒明天皇陵内に大伴皇女墓というものがあり、舒明天皇と近縁ではないにも関わらず何故陵内にあるのかを調べている。
被埋葬者である大伴皇女についてなるべく詳しく知りたい。
大伴皇女は『古事記』並びに『日本書紀』では欽明天皇の娘とされているが、敏達天皇の娘と記載する伝承や資料がないか確認したい。また、大伴皇子という表記がないかも確認したい。
大伴皇女、大伴皇子の記載がある資料を出来得る限り求めたい。
- 回答
-
大伴皇女について記載のある下記資料1-9を紹介します。
資料名末尾の(【 】内は国立国会図書館請求記号)
※印は国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館・個人送信対象資料)
1 北康宏「律令国家陵墓制度の基礎的研究-『延喜諸陵寮式』の分析からみた-」(『史林 = The Journal of history』79(4) (通号 398) 1996.7 pp.1-45(pp.(481)-(525))【Z8-342】)
(京都大学学術情報リポジトリで閲覧可能:https://doi.org/10.14989/shirin_79_481 )
→pp.22-24(pp.(502)-(504))に、押坂内墓の被葬者「大伴皇女」を「大俣皇女」であるとし、敏達天皇の子の妻とする説が記載されています。
2 関口裕子 著『日本古代家族史の研究』下 塙書房 2004.2【EC82-H31】
→p.987、pp.1008-1009に大伴皇女に関連した記述があります。
3 西田長男 「鏡王女の出自」続篇(一)(國學院大學神道史學會『神道及び神道史』(14) 1970.3 pp.1-67【Z9-170】)※
→pp.3-12に分散して、大伴皇女への言及があります。
4 原島礼二 著『倭の五王とその前後』(塙選書) 塙書房 1970【GB165-4】※
→p.133-135の「皇女墓」のp.134に大伴皇女への言及があります。
5 菅野雅雄 著『記紀歌謡と万葉の間』(国語国文学研究叢書 ; 第33巻)桜楓社 1982.5【KG27-11】
→pp.24-30の間に分散して、大伴皇女に関する記述があります。
6 真弓常忠 著『日本古代祭祀と鉄』学生社 1981.12【HL41-46】※
→p.14に大伴皇女への言及があります。
7 川口常孝 著『大伴家持』桜楓社 1976【KG35-37】
→pp.31-32に大伴皇女への言及があります。
8 新川登亀男 著『日本古代の儀礼と表現 : アジアの中の政治文化』吉川弘文館 1999.7【GB191-G13】
→p.266に大伴皇女への言及があります。
9 渡里恒信 著『日本古代の伝承と歴史』思文閣出版 2008.3【GB163-J19】
→p.101に大伴皇女への言及があります。
<その他の主な調査済み資料>
・竹内理三, 山田英雄, 平野邦雄 編『日本古代人名辞典』第2卷 吉川弘文館1959.7(12刷:1992.2)【GB12-G14】※
*p.346
・堀田啓一 著『日本古代の陵墓』吉川弘文館 2001.8【GB77-G195】
*p.137,144
・服藤早苗 編著『歴史のなかの皇女たち』小学館 2002.12【GB77-H17】
*p.235
[参考:大伴皇子という表記について]
「大伴皇子」に関連する言及のある次の資料をご参考までにお知らせします。
・飯田武郷 著『日本書紀通釈』第4 昭和5【41-103ロ】国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)( https://dl.ndl.go.jp/pid/1145490/1/235 )
→p.2695に「大伴皇女。舊事紀に皇子とあれと。記に妹大伴王とあれは。男王は誤なるへし。」等とあります。
(ウェブサイトへの最終アクセスは2024年1月16日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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平安時代に書かれた『延喜式』には「大伴皇女押坂内墓」「押坂内墓大伴皇女在大和国城上郡押坂陵域内無守戸」と記載され、現在宮内庁で管理されている。
舒明天皇陵には他に田村皇女、鏡王女の押坂墓が所在する。
『日本書紀』巻第十九 欽明天皇二年三月条にて、欽明天皇と堅鹽媛の間に生まれた十三人の子供の一人としている。
『先代旧事本紀』には大伴皇子との記載が見られる。
『古事記』では岐多斯比売との間に生まれた「妹大伴王」と書かれている。
用明、推古両天皇と大伴皇女とは姉妹の関係と推察される。従って舒明天皇との血縁関係は薄い。また、没年事績等不明の為、夭逝した可能性もある。
『桜井市史』では元々先に大伴皇女墓があり、後に舒明陵がつくられたという仮説が記載されている。
敏達天皇の子供に大伴皇子がおり、双子の説もあるそうだが、どの資料でそれを確認したのか失念してしまった。
- NDC
-
- 日本史 (210)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 人文(レファレンス)
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000345826