レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年07月17日
- 登録日時
- 2021/01/23 11:46
- 更新日時
- 2021/01/26 15:50
- 管理番号
- 0000001725
- 質問
-
未解決
戦前、福井県坂井郡三国町に尼崎精工㈱三国製造所(疎開工場)があったらしい。その場所が現在のどこか知りたい。戦前の製造所の敷地の境界線がわかればなおよい。地上、半地下、地下工場があった模様。
- 回答
-
関連事項の記載資料は次の通り。ただし、敷地の境界線がわかるような資料は判明しませんでした。
1.『工場受入態勢の概況』(福井県 1952年)p33~34
・・・本資料は、福井県内各市町村の工場受入候補地を紹介。三国町のページに下記記載あるが、地図や住所の記載は無し。
”(A)100,000坪 工場跡 一部整地を要す””(B)100,000坪 原野 全部整地を要す””候補地(A)は、元尼崎精工株式会社の工場跡であり、(B)はその隣接地である。両地域とも三国町の北部に在り、三国駅まで約0.5粁(キロメートル)である。”
2.『工場適地案内』(福井県経済部商工繊維課 1956年)p90-92,巻末図
・・・本資料では工場適地の候補地の説明として下記記載があり、当時の写真2枚(建物はなく原野が広がっているもの)と、巻末に「三国町工場適地見取図」がありますが、見取図は大まかなものです。
”候補地A 面積:12,000坪、位置:三国町宿29字戸明 京福電鉄三国港駅北方1,000米”
”候補地B 面積:10,000坪、位置:三国町宿48字北上野 京福電鉄三国港駅北方3,000米”
『宿ノ浦ななめ姿誌』. 宿郷土史会, 2001.11【H222/S11/1A】:;p92-93
・・・質問事項の記載はありませんが、宿の小字名、小字号と、小字絵図(手書き)の記載あり。本資料によると「戸明」は、現在の三国町宿の春日神社あたり。
3.『三国町建設計画書 現況篇』(三国町 1957年)p82-84
・・・本資料には、下記記載とともに、工場適地の状況としてA、B2か所を候補地にあげています。(工場適地見取り図があり、『工場適地案内』の見取図と似ています)面積や位置の説明も、『工場適地案内』の説明と似ていますが、本資料には写真掲載はありません。
”昭和17年には尼崎精工株式会社の銃弾製造工場が設立せられ、(中略)終戦と共にいち早く人絹織機製造工場として再発足したが、(中略)経営不振に陥り23年遂に閉鎖の己むなきに至っている”
4.『三国町史』(三国町教育委員会 1964年)p930
・・・下記関連事項の記載がありますが、住所等の記載は無し。。
”尼崎精工株式会社が主として信管製造を目的に駅裏の台地上に一大工場を設立した。工員600名を擁し疎開工場としては規模も大きかったが、敗戦は一挙に廃工場としてしまった。”
5.『全国工場通覧 昭和24年版』(商工省編 工業新聞社 昭和22-24年)p9、3段目
・・・下記関連事項の記載あるが、詳しい地番は不明。
”尼崎精工㈱三国製造所 坂井郡三国町滝谷”
『全国工場通覧 昭和24年版』は、国立国会図書館デジタルコレクションで利用可能です。p9は105コマ目に該当。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124409
6.『角川日本地名大辞典 18 福井県』(角川書店 1989年)p1448、「地誌編-三国町」の「みどりがおか 緑ケ丘1~4丁目」項目内に下記記載あり。
”4丁目は山林地帯を第2次大戦中軍需工場尼崎精工建設のため開発し、現在は全国79の別院の1つである千葉成田山北陸別院九頭竜寺などが中心となり,正月には15万人余の参詣客でにぎわう。”
7.『日本海海運史の研究』(福井県郷土誌懇談会 1967年)p356に、『三国町史』を出典とした下記記載あり。
”戦時中三国高等学校裏台地に尼崎精工株式会社が信管製造を目的に大工場を設立したが敗戦で一挙に廃工場になった。
(補足)
・当館の住宅地図は、三国町は昭和47年以降しか所蔵がなく、敷地の境界線がわかるような資料は確認できませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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昭和20年度兵器製造設備疎開分散計画調査表/弾薬
ネット:工員だった人の記載はあるが工場の場所までは判らず。
- NDC
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- 工業.工業経済 (509 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000292850