レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/06/30
- 登録日時
- 2009/11/11 02:11
- 更新日時
- 2009/12/02 10:46
- 管理番号
- 埼浦-2009-031
- 質問
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未解決
浦和第二高等女学校の寮について、建物や場所の変遷を知りたい。
- 回答
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浦和第二高等女学校の寮について書かれた資料は、見つけることができなかった。
- 回答プロセス
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浦和第二高等女学校は昭和9年、埼玉県女子師範学校に併設された。併設当時の同校所在地は、六辻村別所。参考として、埼玉県女子師範学校の校舎および寄宿舎の、移転の流れについて書かれた部分を紹介した。
『百年史』(百年史刊行会(埼玉大学教育学部内) 1976)
「第2部 埼玉県女子師範学校」
p519〔埼玉県女子師範学校は〕「明治34年創立以来使っていた旧埼玉師範学校校舎鳳翔閣の老朽化にともない、校舎、寄宿舎等を北足立郡六辻村別所(現在浦和市別所、埼玉大学教育学部付属中学校用地)に、新築移転したのは、大正12、13年である(略)」
p552「寄宿舎は大正12年、本校舎移転に先がけて、六辻村別所に移転し(略)」
p559「昭和9年には、埼玉県立浦和第二高等女学校が併設される。」
p523「校地校舎一覧図 埼玉県女子師範学校 埼玉県立浦和第二高等女学校(昭和9年頃作成)」によると、敷地内に寄宿舎がある。ただし、浦和第二高等女学校が使用していたかはわからなかった。
浦和第二高等女学校が学制改革後に浦和西高等学校となり、現在の所在地に移転するまでの経緯を紹介した。
『埼玉県立浦和西高等学校創立三十周年誌』(埼玉県立浦和西高等学校 1964)
p15浦和第二高等女学校の航空写真「当時の学園全景と近くの別所沼」あり
p16「別所の校舎は、(中略)寄宿舎の建物と共に、今の埼玉会館や県立図書館のある処から移築したものですが」
p20「昭和18年県立師範学校が国立になった際、第二女学校だけは県立のまま残ったのである。戦後の学制改革によって師範は埼大となり、第二女学校は新制の共学高校となった。埼大に附属中学が新設されることになって、中学と高校が同一校地内に同居することになったわけである。その上校地内には師範時代の寄宿舎があって、多数の先生方の家族が住んでいたので(以下略)」
p22「初め附中側を大学のそばに移転してはという考えもあったが適当な敷地がないので、西高を移転することに方針をたてた。」
p25「昭和31年8月、待望の第一期工事が成り、なつかしい別所の校舎とも別れをつげて新装の近代的校舎に移転した。」
上記附属中学校について、次の資料を紹介した。
『20年のあゆみ』(埼玉大学教育学部付属中学校 1968)
p31「昭和27年当時の平面図」に、附属中学校使用建物とともに敷地内に女子寮が記されている。浦和第二高等女学校が使用していた建物かはわからなかった。
『百年史』(百年史刊行会(埼玉大学教育学部内)1976)
p1158(付属中学校は)「昭和29年度から34年度にかけて(中略)校舎の拡充整備が意欲的に進められた。(中略)昭和44年度に至って、ついに新校舎の誕生をみるに至るのである。」
p1152航空写真「付属中学校旧校舎(昭和34年撮影)」を見ると、上記「校地校舎一覧図」p523にある寄宿舎の建物部分は更地になっている。
《埼玉県立文書館収蔵資料検索システム》を〈浦和第二高等女学校〉で検索したところ、「昭和十三年度埼玉県女子師範学校埼玉県立浦和第二高等女学校一覧」がヒットする。参考に紹介する。
(http://www.saimonjo.jp/01_top/Index.html 2009/06/30最終確認)
- 事前調査事項
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情報源:『埼玉大百科事典 1』(埼玉新聞社 1974)
p202〈浦和西高等学校〉の項によると、「昭和9年(1934)埼玉県立浦和第二高等女学校として埼玉女子師範学校に併設、4月開校。同23年、学生改革により新制高等学校となり、埼玉県立浦和第二女子高等学校となったが、同25年、埼玉県立浦和西高等学校と改称し、(中略)同31年、現在地に新校舎を落成移転し」とある。
- NDC
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- 幼児.初等.中等教育 (376 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 浦和西高等学校(埼玉県立)
- 浦和第二高等女学校
- 埼玉県-高等学校-歴史
- 学生寮
- 校史
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000059373