レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年10月04日
- 登録日時
- 2022/10/14 17:32
- 更新日時
- 2022/11/10 11:20
- 管理番号
- 2022-13
- 質問
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解決
『吾妻鏡』の承久3(1221)年6月18日条(日記)の中に伊予の”玉井四郎”という武士の名がでてくる。どんな人物か。
熊谷市にも”玉井四郎”と言われる武士がいたが、関連はあるか。
- 回答
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【資料1】p239 注220伊予の玉井四郎
生没年未詳。武蔵国の武士成田氏の一族の玉井氏とは別の伊予国の武士。
【資料2】p3597 16伊予の玉井氏
東鑑巻二十五に伊與玉井四郎を載せ、又豫章記、正平の頃に玉井四郎左衛門尉あり。第三項参照。
又温泉郡の名族に玉井氏ありて、湯月八幡再興、河野通宣の書を蔵す。
p3595~3596 3藤原北家成田士族
p3596(抜粋)又東鑑承久三年六月十四日、宇治川合戦に『敵を討つ人々、金持兵衛尉日記に、安東兵衛尉の手・伊豫玉井四郎一人云々、』元暦よりこゝに至り、三十八年の及ぶときは、資重とは別人なるべし。
上記以外に「伊予の玉井四郎」についての情報は見つからなかった。なお、「豫章記、正平の頃に玉井四郎左衛門尉」は、「予章記」「豫陽河野家譜」で確認したが、年代が異なるため東鑑の玉井四郎とは別人と思われる。
以下、【資料3】~【資料9】調査した資料。
- 回答プロセス
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【資料1】~【資料9】を調査したところ【資料1】【資料2】に掲載があった。
- 事前調査事項
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熊谷の玉井四郎は「保元の乱(1156)」に参加していた。玉井氏の祖は、成田氏で長男が成田太郎、次男が別府(符)次郎、三男が奈良三郎、そして四男が玉井四郎で、当地では「武蔵四家」といわれる一族を構えていた。また、「保元物語」に玉井四郎の名がある。承久の乱(1221)後、玉井氏は丹波國(京都)に所領を得た。
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『現代語訳吾妻鏡 8 承久の乱』 吉川弘文館 2010 <当館請求記号:210.42-ゲン8-2010>
- 【資料2】『姓氏家系大辞典 第2巻 キ-ト』角川書店 1976 <当館請求記号:アキ28-16-2>
- 【資料3】『愛媛県編年史 第2・第3』 愛媛県 1965
- 【資料4】『予章記 水里玄義・河野分限録 改訂3版』 伊予史談会 2008
- 【資料5】『予陽河野家』 景浦 勉/校訂 歴史図書社 1980
- 【資料6】『予陽河野家譜 巻の3』 戒能申脩 1972
- 【資料7】『伊予の古城跡』改訂3版 伊予史談会 1998
- 【資料8】『愛媛県中世城館跡 分布調査報告書』 愛媛県教育委員会 1987
- 【資料9】『えひめ名字の秘密 名字でたどるあなたのルーツと愛媛の歴史」 土井中 照/著 第2版 アトラス出版 2006
- キーワード
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- 玉井四郎
- 承久の乱
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000322603