レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年02月08日
- 登録日時
- 2011/03/09 15:37
- 更新日時
- 2023/11/02 17:51
- 提供館
- 岐阜県図書館 (2110001)
- 管理番号
- 岐県図-1289
- 質問
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解決
岐阜高校の校歌の制定時期と作詞・作曲者の経歴が知りたい。
- 回答
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1 ※「備考」欄も参照のこと※
清信重『岐高百年史』(岐高同窓会,1973)によると、以前の校史『岐高八十年』には明治44年制定とあるが、当時の学校誌『華陽』で見る限り、45年1月刊の同誌には「校歌待望」論がのっているがまだ出来ておらず、45年7月刊の「華陽」に譜入りの全文が出ている。また45年入学生によると4月入学式に、印刷された校歌が頒布されたとされており、45年1月~3月に完成したものと推測されている。
また、『岐阜高校創立120周年』(岐阜高等学校,1993)の年表には「1912年(明治45)3.校歌『千仭の嶽』制定。」と記載されている。
2 作詞者は松平静、作曲は伊藤栄治および東京音楽学校(前述『岐高百年史』より)
松平静氏・・・明治9年1月2日生まれ 越前敦賀、常宮神社神主の二男
明治28年、国学院入学 歌の指導を受け、枕草子の研究を志し「枕草子詳解」を著す。
卒業後、岐阜師範学校、岐阜中学校に国語科教員として17年間教鞭をとる。
大正4年、岐阜県南宮神社宮司排命、8年間奉務
次で、静岡市浅間神社に転じ13年奉務
更に、京都北野天満宮に転じ、13年奉務
最後は、加茂別雷神社に転じて、3年奉務、70歳になり北白河に隠居する
隠居後は、旧著『枕草子詳解』の大改修中
(松平静『歌稿北白川』(松平静,1958)「あとがき」(昭和33年6月25日づけ)より)
伊藤栄治氏・・・明治7年12月3日安八郡神戸町、嘉助氏の長男として生まれる。
明治28年岐阜師範学校を卒業し21才で大垣町七郷小学校(今の大垣市東町学校)に校長として赴任。
1年後、東京音楽学校へ入学し、明治33年岐阜高等女学校が創立されるのと同時に音楽教師として就任、大正12年まで25年間教鞭をとる。その間、岐阜中学校教諭を兼ねる。
大正2年高井憲司、杉原亮司等と共に松風会を組織。
大正7年、岐阜市今沢町に松栄堂(楽器商)を開く。
大正12年以降、冨田、佐々木両高等女学校の音楽教師に招かれつつ、昭和4年岐阜商工会議所議員に当選。
昭和6年には岐阜実業協会の理事。
昭和8年、岐阜商工会議所議員再選。
昭和9年、神田町郵便局前に店館を移転。
以上、『濃飛人物大鑑』(藍南社出版部,1935)、『濃飛の誇り 下巻』(岐阜新聞社,1933)より
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 教育史.事情 (372 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
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- 岐阜県立岐阜高等学校
- 備考
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※「回答」欄の1にある「校歌待望」論の、『華陽』掲載号について補足
『岐高百年史』p274には『華陽』の明治44年1月発行のものに「校歌待望」論が載っている旨の記述があるが、p264には44年11月発行の『華陽』に校歌待望論が出ているとの記述もあり、実際に確認すると、明治44年11月発行の第51号に掲載されている。 (2013年8月2日、岐阜県立岐阜高等学校より情報提供)
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000081417