レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年01月17日
- 登録日時
- 2023/02/10 14:03
- 更新日時
- 2023/02/10 14:09
- 管理番号
- 横浜市中央2687
- 質問
-
解決
横浜市港北区の「富士塚」という地名について、実際に富士塚があったのかが知りたい。
また該当地域の富士信仰に関する資料が見たい。
- 回答
-
地名の元になった富士塚は横浜市港北区富士塚2丁目付近にあったことがわかりました。
以下、該当の富士塚について記載のある資料、港北区の富士信仰について
記載がある資料を紹介します。
また「富士塚」という地名は昭和46(1971)年の住居表示施行にともない篠原町、菊名町の
各一部から新設されたため、昭和46(1971)年以前の該当地区付近について記載があった資料も
紹介します。
1 該当の富士塚について記載のある資料
(1) 『港北百話 古老の話から』 「古老を囲んで港北を語る」編集委員会/編
港北区老人クラブ連合会 1976.3
p.202 「富士塚」
「富士塚の地名の由来になっている塚は、現在の富士塚二丁目、小恵幼稚園の高台に、
富士浅間神社という小さな社とその脇の大きな松の木の下に、富士塚と呼んだ
大きな塚があった。それが大正初期に神社の合併があって、この社はなくな
り、その後塚も松の木も宅地化の波に流されて、いつしか無くなり、
今は、その跡さえない。」という記載があります。
※なお、「小恵幼稚園」は『港北区明細地図 昭和36年度 港北区東部地区』
(経済地図社/編 経済地図社 1961.7)
P.91で「篠原町1912」にあったことがわかります。
(2)『横浜の町名』 横浜市役所市民局住居表示課/編 横浜市市民局住居表示課 1982.3
p.216 「富士塚(一丁目~二丁目)」
富士塚一丁目・二丁目の町名について「現在の富士塚二丁目の小恵幼稚園上の
高台に富士浅間神社とともにあった富士塚という塚に由来する。
(『港北百話』)字名に富士塚谷があった。」という記載があります。
また、港北で行われていた富士講についても記載があります。
(3) 『横浜の町名』 横浜市市民局総務部住居表示課/編 横浜市市民局総務部住居表示課 1996.12
p.165 「富士塚一丁目・二丁目」
富士塚一丁目・二丁目の地名に関する説明と「大正初期まで現在の富士塚二丁目の
地域に富士浅間神社と大きな塚があった。これは富士信仰の富士塚であったが、
宅地化によって消えた。」という記載があります。
(4) 『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編纂
角川書店 1984.6
p.767 「ふじつか 富士塚 <横浜市港北区>」
港北区富士塚について「町名は富士浅間神社と富士塚があったことによる。」
という記載があります。
(5) 『港北区史』 港北区郷土史編さん刊行委員会/編 港北区郷土史編さん刊行委員会 1986.3
p.528 「富士塚」
篠原の富士塚について「戦時中高射砲陣地構築のため崩されてしまった。」
という記載があります。
(6) 『わがまち港北』 平井誠二/著 「わがまち港北」出版グループ 2009.7
p.49 「第一九回 サンダル履いて富士山に登ろう!」
「富士塚二丁目には、大正初期まで富士浅間神社と富士塚がありました。
その後、宅地化によって塚は無くなりました。」という記載があります。
(7) 『大日本地誌大系 3 新編武蔵風土記稿』 雄山閣 1957.4
P.262 「篠原村」
小名として「富士塚谷 東北の間を云、」という記載があります。
(8) 「明治16年 神社明細帳」 橘樹郡役所/発行 1885
https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/detail?cls=04_collect_arch_folder&pkey=1199400009
※「神奈川県立公文書館」のウェブページ(電子資料一覧の72件目に該当します。)
「神奈川県管下武蔵国橘樹郡篠原村字富士塚・社格無之浅間社」について
「祭神」「由緒」「氏子戸数」などが掲載されています。
2 港北区の富士信仰について記載のある資料
(1) 『神奈川県民俗シリーズ 11 神奈川の富士講』
神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課/編 神奈川県教育委員会 1974.3
p.94 「資料二十 港北区篠原町」
「篠原本一講」という富士講について記載があります。
(2) 『港北百話 古老の話から』 「古老を囲んで港北を語る」編集委員会/編
港北区老人クラブ連合会 1976.3
p.58 「富士講」
「村の有志が集まり白衣の先達よろしく「六魂清浄」を唱えて
七富士めぐりなどをした。七富士めぐりは荏田、川和、池辺、茅ヶ崎、北山田、
新羽、篠原の富士塚が一つの組合せとなっていた。」と記載があります。
(3) 『市民グラフヨコハマ』No.43 1982年 横浜市市民局市民活動部広報課/編
横浜市市民局市民活動部広報課
p.24 「噴火口もある富士塚」
七富士めぐりについての記載があります。
(4) 『港北区史』 港北区郷土史編さん刊行委員会/編 港北区郷土史編さん刊行委員会 1986.3
p.945 富士講
現在の港北区、鶴見区付近の富士講の伝来や経過について記載があります。
(5) 『富士講と富士塚 東京・神奈川 日本常民文化研究所調査報告』
神奈川大学日本常民文化研究所/編 平凡社 1993.08
p.108 「21 横浜市港北区篠原町」
「篠原本一講」について「太尾、菊名、大豆戸、綱島の議員が百名位集まり、
オガミをあげて出発、駒岡―下末吉―市場―渡田―小田―稲毛神社と廻ったり、
駒岡―下末吉―加瀬―江ケ崎―矢上―高田と廻ったりした。」という記載があります。
※インターネット情報の最終確認日:2023年1月17日
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213 8版)
- 神社.神職 (175 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000328794