レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/7/10
- 登録日時
- 2021/06/23 00:30
- 更新日時
- 2021/06/25 11:46
- 管理番号
- 6000005501
- 質問
-
解決
戦時中、甲子園球場が空襲の被害にあった際の写真や資料を探している。
- 回答
-
『鳴尾村誌 1889-1951』に甲子園球場の球場長を務めた川口永吉氏が、空襲について著作で語ったことが次のように引用されていた。
「グラウンドには、五、六千個の焼夷弾(しょういだん)が突き刺さった。まるで墓場の花筒が林立しているようであった。スタンドも大半が焼けただれ、球場の窓ガラスは爆風で吹っ飛んだ。外野と西アルプスの間は内部が丸焼けになったのである。また室内運動場には飛行機に使う機械油が置いてあり、それに引火、外野三階の鉄工場貯蔵油がそこへ流れ出し、球場全体が一面火の海となった。ものすごい炎が飛び出しスタンドは穴だらけ、火は延々三日間も燃え続け手もつけられぬ惨状となった。」(川口永吉/著『甲子園とともに』)
・阪神電気鉄道株式会社の社史『輸送奉仕の五十年』では、「甲子園の三十年」と題して開催した、社内関係者の座談会での発言が記されている。
「泉谷:広島に原爆が投下されたあの八月六日の未明ですよ。グラウンドには五、六千個くらいかと思うが、とにかく無数の焼夷弾が突き刺さり、まるで墓場の花筒が林立しているようでした。外野スタンドから西アルプス間は内部が焼け、球場の窓ガラスはほとんどこわれ、西アルプス下のスタンドを支えている鉄のアーチもへし曲がり、そのためこの部分のスタンドの立入りはしばらく禁止したほどです。」
「辰馬:室内運動場につまっている飛行機の部分品には機械油が塗ってありましたが、それが燃え出す。外野の三階にいた鉄工所の貯蔵油が流れ落ちて一面火の海となるといった有様で、物凄い黒焔が全球場をつつんでしまいました。スタンドには十数か所も穴があき、トラック用の木炭の山は二、三日間も燃えつづけるという目も当てられぬ惨状でした。」
※泉谷氏は専務取締役、辰馬氏は元事業部長(肩書はいずれも当時)
当時の写真については、本市図書館に所蔵がなく、西宮市立郷土資料館、西宮市情報公開課、西宮市人権平和推進課にも所蔵なし。
・朝日新聞データベース聞蔵で以下の記事が該当。
<甲子園球場 空襲>で検索
・1994年7月29日夕刊2社:戦時中の球場長石田恒信さんの手製本『甲子園の回想』に書かれている空襲の様子が引用されている。
“「スタンドの頂上で敵機の方向を見守っていた」石田さんに、B29の一編隊が球場方向に進路を変えるのが見えた。「スタンドを駆け降り(略)、防空壕(ごう)へと飛びこみ、頭をかかえてうづくまるや否や間髪を入れず炸裂(さくれつ)する被爆弾の響は、(略)全く生きた心地とてなかった」。さらに八月六日早朝、西宮南部への空襲で球場周辺には焼い弾が落とされた。石田さんの目に映った球場は「数十発の被弾が柔らかいグラウンドの地面に突き刺さり、(略)あたかも歩兵の大部隊が砲先をそろえて行進するかの様であった」”
・1995年8月7日夕刊1面:”球場北側の「役員・関係者入り口」の鉄扉には、当時の弾痕がいまも数カ所残っている”(1995年当時)。
<甲子園球場 弾痕>で検索
・2008年8月5日夕刊10ページ(大阪):空襲時に球場に逃げ込んで助かった人の証言が掲載されているほか、弾痕が残る鉄扉の写真が掲載されている
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 鳴尾村誌 1889-1951 鳴尾村誌編纂委員会/編 西宮市鳴尾区有財産管理委員会(p491)甲子園とともに 川口永吉/著 私家版(p54-P55)輸送奉仕の五十年 阪神電気鉄道/著 (p174-P175)
- キーワード
-
- 甲子園、空襲、戦争
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000300640