レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年04月26日
- 登録日時
- 2023/03/30 17:16
- 更新日時
- 2023/04/28 11:57
- 管理番号
- 2022-006
- 質問
-
解決
戦国時代(安土桃山時代周辺)が終わりに差し掛かる時代に、戦いの場を失った侍たちが傭兵として海外へ渡ったという記載を複数のブログなどで見た。そのような事実はあったのか。あったとすれば、どこの国が主に雇い入れたのか。主にどこの国へ渡ったのか等わかる資料を探している。
併せて、以下の内容がわかる資料もあればほしい。
・渡航した際の船はどのような船だったのか。
・渡航の際の航路はどこを経由していったのか。経由した港はどこか。
・外国人たちとの戦いはどのようなものだったのか。
- 回答
-
①『人身売買・奴隷・拉致の日本史』 渡邊大門/著 柏書房 2014.4(図書)
②『新版 雑兵たちの戦場』藤木久志/著 朝日新聞社 2005.6(図書)
③『海のサムライたち』白石一郎/著 日本放送出版協会 2003.2 (図書)
④中西豪「戦国の飢渇が生んだ傭兵の素顔雑兵」『歴史群像』16(4),p106~111(記事)
⑤『読書案内 戦国を知る本②戦乱』日外アソシエーツ 2008.10(図書)
⑥『朱印船と日本町 増補版』岩生成一/著 至文堂 1966(図書)
⑦『朱印船と南への先駆者』ぎょうせい 1986(図書)
⑧『史実山田長政』江崎惇/著 新人物往来社 1985(図書)
⑨『南蛮帖:鎖国全史の諸問題』岡田章雄/著 黄河書院 1943(国立国会デジタルコレクション)
⑩『キリシタン時代の知識人:背教と殉教』遠藤周作, 三浦朱門/著 日本経済新聞社 1967(国立国会デジタルコレクション)
⑪『南洋日本町の研究』岩生成一/著 南亜文化研究所・地人書館 1942(国立国会デジタルコレクション)
⑫茶屋交趾貿易圖 (名古屋温故会絵葉書)(こまきデジタルコレクション)
- 回答プロセス
-
1.当館の所蔵資料でキーワード「傭兵」「朱印船」で検索、および棚のブラウジングにて探索し、以下①~③の所蔵図書に記述があることを確認した。
①『人身売買・奴隷・拉致の日本史』 渡邊大門/著 柏書房 2014.4
→P161-166「海外で戦う日本人」「海外の日本人」の項に、朱印船に乗ってタイに渡航した山田長政についての記述があったほか、「17世紀初頭の東アジアにおいて、日本人の多くが傭兵としてオランダなどで雇用されていたことが指摘されている」とあった。
②『新版 雑兵たちの戦場』藤木久志/著 朝日新聞社 2005.6
→P269-280「日本人の傭兵と奴隷」「無数の山田長政たち」「東南アジアに流れる武器と傭兵」など海外へ渡った傭兵についての記述のある項が複数あった。
この項における[注]の多くが『南洋日本町の研究』(岩生成一/著 南亜文化研究所・地人書館 一九四〇年)によるものであり、当館に所蔵はないが国立国会デジタルコレクションにて閲覧可能な資料であったため、併せて⑪として案内した。
③『海のサムライたち』白石一郎/著 日本放送出版協会 2003.2
→P136-150「八 山田長政 タイ日本人町の風雲児」で「関ケ原の合戦、大阪冬の陣・夏の陣の二大合戦の末、日本国内に職を失った浪人達が溢れ、彼らが新天地を海外に求めて次々と渡海していった」と記述があった。
2.「国立国会図書館オンライン」にて「戦国時代 傭兵」「朱印船 傭兵」「安土桃山 傭兵」「山田長政 傭兵」などのキーワードで検索し、関連すると思われる図書、文献を探索したところ、以下の図書の該当があった。
・『新版 雑兵たちの戦場』藤木久志/著 朝日新聞社 2005.6 ※②と同様
3.当館が契約する雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」で検索したところ、以下の記事があった。
④中西豪「戦国の飢渇が生んだ傭兵の素顔雑兵」『歴史群像』16(4),P106~111
→文献の内容は確認できなかった。
4.当館所蔵の参考図書で再度文献調査したところ、以下資料⑤の「日本町」、「山田長政」等の項目に多くの文献が出ており、その中に当館に所蔵する資料⑥~⑧があった。
⑤『読書案内 戦国を知る本②戦乱』日外アソシエーツ 2008.10
⑥『朱印船と日本町 増補版』岩生成一/著 至文堂 1966
→朱印船の制度や日本町の研究、口絵に下記⑫の写真、P2航路、P39-40に船の構造等の記述があった。
P104-106に、日本人移住者の渡航経路・身分・雇傭関係等の一覧に「傭兵となれる者」の記述があり、日本人移住者の雇用主となった諸外人として「南洋土着民:越南人(ベトナム人)、柬埔寨人(カンボジア人)、暹羅人(タイ人)、ビルマ人」「南洋外来人:オランダ人、ポルトガル人、イスパニヤ人、イギリス人、イタリヤ人、支那人」とあった。
また、「日本人のみ特定に集団をなして一部落を形成した場合(略)当時もっぱら『日本町』と呼んで」とあり、日本町があった場所としてフィリピンの呂宋(ルソン)島のマニラ市南郊のディラオとサン・ミゲル、交趾(現ベトナム)のフェフォとツーラン、柬埔寨(カンボジア)の奥地のピニャールーとプノンペン、および暹羅(タイ)のアユチヤとビルマのアラカンの八カ所との記述があった。
⑦『朱印船と南への先駆者』ぎょうせい 1986
→P48~シャム(現在のタイ)では日本人300~400人が国王の親衛隊長として活躍したと記述があった。
⑧『史実山田長政』江崎惇/著 新人物往来社 1985
→小説風の伝記。P63に「山田長政の戦艦図」の記載があった。
5.その他、国立国会デジタルコレクションにて「安土桃山 傭兵」「戦国 傭兵」で検索し、以下の資料を見つけた。
⑨『南蛮帖:鎖国全史の諸問題』岡田章雄 著 黄河書院 1943
→P134「文禄元年(一五九二年)にはマニラ政府はマニラ市の郊外に特別地区を設けて日本人の居住地として指定した。(略)これらの人々の中にはスペイン船の船員になつたりまたはスペイン人の下に私傭人となって働いたりあるひは傭兵として軍務についたりしてゐたものも多かつた。」とあった。
⑩『キリシタン時代の知識人:背教と殉教』遠藤周作, 三浦朱門/著 日本経済新聞社 1967
→P77-79「日本人は貿易を行ってマニラを富ませたばかりでなく、傭兵として武功をたてた。一五九六、一五九八年には、日本兵はスペインの将軍の下に、カンボジアで戦っている。一六一五年には、五百の日本兵がモルッカで戦い、一六〇三、一六三九年にはマニラ中国人の反乱に際して、日本人はスペイン人を助けている。」
「マニラにいる日本人が、本国においては失意の失業武士を中心とすることは、袴をはき二刀をたばさんでいたというモルガの描写でも明らかである。」といった記述があった。
※モルガは、P78「十六世紀の末、フィリピンの副総督であったオンハニオ・デ・モルガ博士」と記述があった。
質問者へは①~⑩、②の参考文献として⑪の資料を案内したほか、船の形状がわかるものとして、⑥の口絵にもあった『茶屋船交趾渡航貿易絵巻』を絵葉書にした『茶屋交趾貿易圖』(名古屋温故會 19-(不明))を当館で所蔵しており、この資料が当館作成のデジタルコレクションで閲覧できたため、併せて⑫も案内した。
⑫『茶屋交趾貿易圖』(名古屋温故会絵葉書)(こまきデジタルコレクション https://web.d-library.jp/komaki/g0101/top/)
※どなたでも閲覧可能。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 傭兵
- 安土桃山
- 戦国時代
- 朱印船
- 山田長政
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査 所蔵調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000331285