レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2008/08/21 02:10
- 更新日時
- 2008/08/21 02:10
- 管理番号
- B2007FK0088-3
- 質問
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解決
第二次大戦下における日本において、原子炉建設に関して何らかの動きがあったのでしょうか。
- 回答
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戦時下の日本において、原子炉建設に向けた研究がなされていたという記述は見当たりませんでした。詳細は以下をご覧ください。
当館NDL-OPAC( http://opac.ndl.go.jp/index.html )にて、件名「原子力」と「歴史」でAND検索して得られた11件の和図書について調査したところ、以下の資料に戦時下の日本における原子力研究に関する記述がありましたが、原子炉建設に向けた研究がなされていたとする記述は見当たりませんでした。(【 】内は当館請求記号です。)
(1)『原子力の社会史:その日本的展開』(吉岡斉著 朝日新聞社 1999.4 325,10p 【DL213-G28】)
「第2章 戦時研究から禁止・休眠の時代(一九三九~五三)」(p.39~62:特に終戦以前の状況については、「1. 日本の原爆研究」(p.39~48)に記載されています)に戦時下における日本での原子力研究に関する記述がありますが、原子炉建設に向けた研究については言及されていません。仁科芳雄博士の「ニ号研究」について詳述されており、“「ニ号研究」は本質的に理論計算と基礎実験のためのプロジェクトであり、原爆を実用化しようとする志向を欠落させたものであった”(p.42)など原爆製造を目指して立ち上がったプロジェクトながら“原爆開発に役立つ成果をほとんど生み出さずに終った”(p.43)と結論づけています。なお、原子炉に関する記述は以下の一箇所のみです。
“「ニ号研究」の構想内容そのものが、国際的にみてきわめて見劣りのするものであったことを、ここで指摘しておかなくてはならない。第一に、それは原爆材料製造の二つの路線のうち、一つを完全に見落としたものであった。(中略)まず、第一の点について説明すると、原爆材料製造の二つの路線とは、ウラン濃縮によって高濃縮ウランを得る路線と、原子炉の炉心に装荷された照射済の天然ウランから再処理によってプルトニウムを抽出する路線の二つである。濃縮ウラン路線の推進のためには高性能のウラン濃縮装置が必要であり、プルトニウム路線の推進のためには、原子炉と再処理施設の双方が必要である。(中略)「ニ号研究」で濃縮ウラン路線のみが採用されたのは、仁科らの研究者がプルトニウムの存在を知らなかったためと推定される。(後略)”(p.43~44)
プルトニウムの存在を知らなかったため、原爆開発のために原子炉を建設するという流れに至らなかったようです。
(2)『原子力タイムトラベル』(藤家洋一著 ERC出版 1998.12 220p 【NG31-G72】)
「第6章 ミクロ世界が開く現代文明」の「4. 日本の原子力開発」(p.208~214)の「1. 黎明期の原子力開発」(p.208~210)に、以下のように記載されています。
“日本が原子力開発に着手したのは、第二次世界大戦に敗北したあと一〇年経ってからです。アイゼンハワーの平和利用宣言から二年後のことです。”(p.208)
戦時下においては本格的な原子力開発ははじまっていなかったようです。
(3)『原子力/時代を先駆けた男達』(吉川秀夫著 日刊工業新聞社 1989.9 254p 【M31-E21】)
「第3部 原子力の実用化に向けて」に「なぜ、加速器を壊すのだ」(p.193~206)と題して、仁科芳雄博士に関するエピソードが紹介されています。1937年に理化学研究所内に建設されたサイクロトロンが、戦後、GHQの指示により破壊されるエピソードです。この中に、以下の記述があります。
“仁科は再建途上の日本の科学を思いながら、一九五一(昭二十六)年一月十日、無念にも病魔のために亡くなった。その少し前の昭和二十五年十月、彼は原子力に関して次のように記している。
「原子力の開発は二十世紀前半における、科学技術の最大の所産であると言ってさしつかえない。それは物理、化学、工学はもとより数学、生物学、医学など、科学、技術のあらゆる分野の、今日までの成果の全蓄積をすぐって注入した結果であり、さらにアメリカの経済力、事業力、さらに政治力をも結集してできあがった人類能力の結晶とも言うべきであろう」
原子力が平和目的にのみ使用されることを念じつつ、彼はアイソトープの応用から着手して、はるか彼方のエネルギー源として原子力発電を夢みていたのは確かである。”(p.206)
原子力発電につながる原子炉の建設は、まだ「夢みる」状況でしかなかったようです。
(4)『原子力年表:1934~1985』(日本原子力産業会議,森一久編 日本原子力産業会議 1986.11 393p 【DL211-E14】)
1934年から1985年までの原子力に関する国内外の出来事を年表形式にまとめた資料です。1934年~1945年の出来事は、p.3~11に記載されていますが、サイクロトロンに関連する内容、核分裂の追試、ウラン爆弾に関連する内容などが記載されているのみで、原子炉に関する記述は見当たりませんでした。
次に、当館NDL-OPAC( http://opac.ndl.go.jp/index.html )の雑誌記事索引で、論題に「原子力」と「歴史」を含むものを検索して得られた87件の雑誌記事・論文から日本における黎明期の原子力研究について記載されていると思われる資料を調査しましたが、以下のような記述が見られるのみで、戦時下において原子炉建設の研究がなされていたとする記述は見当たりませんでした。
(5)苫米地顯:「研究炉の歩み(歴史) (特集 放射線・原子力の歴史的点描)」
(『放射線教育 Radiation education』 9(1) [2005] pp.57~66 【Z74-E312】)
日本における原子力研究の始まりについて、以下のように記載されていますが、戦時下の研究についての記載は見当たりませんでした。
“1953年12月8日に米国のアイゼンハワー大統領が国連総会で提唱した、「我々が手にした原子力エネルギーを平和の為に役立てよう」と言う「Atoms for Peace」の演説は、広く世界の人々に歓迎され、多くの非核保有国でも原子力の研究が開始されることになった。
我が国においてもこの新たな世界の潮流を踏まえて、1954年3月に、突如、中曽根康弘議員を中心とする先覚者達の働きかけによって、当時の自由党、改進党、日本民主党の三党の共同提案として、金額が核分裂性のウラン235Uの質量数に因んだと言われた2億3千5百万円の特別予算「原子炉築造基礎研究調査費」が国会に提出されて承認された。”(p.57)
(6)宅間正夫:「わが国の原子力発電の歩み (特集 放射線・原子力の歴史的点描)」
(『放射線教育 Radiation education』 9(1) [2005] pp.67~74 【Z74-E312】)
日本における原子力研究の始まりについて、以下のように記載されていますが、戦時下の研究についての記載は見当たりませんでした。
“わが国の原子力発電は、ほぼ半世紀前の1953年(昭和28年)12月の国連総会における米国アイゼンハワー大統領の「原子力平和利用提案」(「Atoms for Peace」)の演説から始まった。”(p.67)
(7)原子力安全研究グループ:「原子力の歴史を振り返って--幻の原子力平和利用」(『公害研究 Research on environmental disruption』 10(3) [1981.01]
pp.11~20 【Z14-500】)
p.13~15に日本における原子力開発が記載されていますが、(5), (6)と同様の内容が記載されているのみで、戦時下での研究については言及していませんでした。
(8)一本松珠〔キ〕:「原子力発電の歴史 (原子力発電(特集)) -- (緒言)」(『電気学会雑誌 The Journal of the Institute of Electrical Engineers of Japan』 92(5) [1972.05] pp.432~435 【Z16-177】)
日本における原子力発電の夜明けについて、以下のように記載されていますが、この資料にも戦時下での研究についての記述は見られませんでした。
“<1・4> 第1回ジュネーブ会議 1955年8月,国連の主催で世界中の大いなる期待を集めて,ジュネーブにおいて第1回原子力平和利用国際会議が開かれた。この会議は原子力発電を主要議題としたものであったが,世界中の原子力権威者が集まった。(中略)この会議は原子力発電の幕明といってもよいであろう。
<1・5> 日本の夜明 ジュネーブ会議後,澎湃として起こった世界の原子力発電ブームに対して日本も当然各方面に関心が高まり,原子力発電開発計画が具体的に論議されるにいたった。この年の終わりに,電気事業連合会も10年以内に商業用原子力発電所完成を計画し,各方面に協力を求めた。(後略)”(p.433)
また、日本における戦時下の原子爆弾開発研究について記載されている資料には以下のような資料がありましたが、いずれにも原子炉研究についての言及は見当たりませんでした。
(9)『日本製原爆の真相』(山本洋一著 創造 1976 233p 【NG153-5】)
著者は戦時中陸軍技術少佐として陸軍の核兵器開発に関与しています。要点は以下のとおりです。
1)海軍は1942年理化学研究所の仁科芳雄を委員長として物理懇話会を組織し、「原子力機関」を研究するが、原子爆弾の完成は戦争中にはどこの国においても不可能であるという結論が出された。(p.53-54)
2)海軍は京都帝国大学教授荒勝文策を責任者として京都帝国大学において原子爆弾の開発(ウラン235の分離は遠心分離法)を研究するが、終戦時においても肝心の遠心分離機が完成しなかった。(p.58-67)
3)陸軍は理化学研究所の仁科芳雄を責任者として理化学研究所において原子爆弾の開発(ウラン235の分離は熱拡散法)を研究するが、1945年6月23日に仁科が原子力研究は中止してもよいという意見を出して終了する。(p.48-64)
(10)山崎正勝:「解説 第二次世界大戦時の日本の原爆開発」(『日本物理学会誌 Butsuri』 56(8)[2001] pp.584-590 【Z15-13】)
著者は東京工業大学教授で、科学史専攻です。戦時中における日本の原子爆弾開発の可能性がなかった理由として以下があげられています。
1)戦時中の日本ではウラン資源を国内から調達できなかったこと
2)ウランがあったとしても濃縮技術がなかったこと
原子炉開発以前に解決すべき問題がクリアされていなかったということになります。原文を以下に引用します。
“もし、理研の物理学者たちが「正しい」爆弾の観念を得ていたら、日本は原爆を持つことができただろうか。答えは「否」だ。アメリカには、日本が秘密裏に戦争末期に原爆の実験に成功していたなどという書物があるので、このことは、はっきり言っておかなければならない。
日本の計画にとって何より致命的だったのは、ウラン資源の欠如だった。日本が第二次世界大戦中に確保できた資源は、大きく見積もっても天然ウラン化合物数百キログラムだった。日本周辺に有力なウラン資源がないことはよく知られていた。英米の合同作戦本部の1944年の報告書でさえ、文献的な調査から、日本は「年間1トンの(ウラン)酸化物を生産できない」と判断していた。
それに技術的な基盤の弱さがある。ウランの濃縮には化学装置の高い水準が要求されるが、それは戦前の日本の技術のもっとも深刻なボトルネックの一つだった。アメリカでも竹内が試みた熱拡散装置の開発が海軍で行われ、陸軍の計画を支援する形でプラントが稼動した。その装置というのは、腐食性の高いフッ化ウランに高圧をかけて液化し、循環させるというしろものだった。そのような装置が当時の日本でつくれたとは思えない。”(p.589)
(11)『昭和史の天皇. 第4』(読売新聞社 1968 404p 【210.7-Y752s】)
「日本の原爆」(p.77-229) は日本の原子爆弾開発研究に従事していた人々へのインタビューをまとめたものです。川島虎之輔(当時陸軍航空本部総務課長、陸軍大佐)の談話として“そのとき仁科さんは『われわれの研究は原爆が先になるか、原子エネルギーを取り出す原子炉が先になるか、やってみなければわからないが、ともかく原料になるウランを軍の方で探して欲しい』”と述べたことが記されています(p.85)。原子炉開発を経て原子爆弾を開発することは想定されていなかったようです。
なお、以下の資料についても、調査しましたが、戦時下における原子炉建設に関する研究については、記述は見当たりませんでした。
(12)『電力百年史』(政経社 1980.8 当館東京本館所蔵 【DL173-45】)
(13)『原子力がひらく世紀』(「原子力教育・研究」特別専門委員会第2グループ編 日本原子力学会 1998.3 309p 【NG31-G50】)
(14)『理化学研究所六十年の記録』(理化学研究所 1980.3 266p 【M8-E6】)
NDL-OPACの最終検索日は、2007年10月1日です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 原子物理学 (429 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 原子力
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000046759