レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年6月15日
- 登録日時
- 2022/07/06 18:09
- 更新日時
- 2022/07/17 20:46
- 管理番号
- 県立長野-22-056
- 質問
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解決
長野県の北信地域で焼かれていた陶芸を「松代焼」と命名した内島北朗について知りたい。
1 第2次大戦中、長野市に疎開していたが、その時の居住地と窯の場所はどこか。
2 「松代焼」と命名したのは、いつか。
3 疎開の動機について知りたい。
4 長野市で作陶した内島北朗の作品の所蔵館はわかるか。
- 回答
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『長野県歴史人物大事典』 神津良子編 郷土出版 1989 【N283/13】 p.107に
陶芸家、俳人。1893(明治26)-1978年(昭和53)。富山県に生まれ、(-中略-)第二次大戦中
水内郡安茂里村(現長野市)に居住し、窯を築いたが、戦後京都に移り東山区に定住し陶芸家と
して活躍する。長野在住中の随筆集に『泥中雑記』がある。句文集に『壺屋草紙』、句集に『光
芒』、陶芸の写真と俳句を収めた『北朗作品記念集』などがある。(-後略-)
とある。
1 長野市での居住地と窯の場所について
『東山だより』 内島北朗著 古川書房 1986 【N940/163】 p.10-20「安茂里物語」に、信州での10年間の思い出が綴られている。
(-前略-)安茂里の家は朝日山という山の麓の丘にあった桑畑の一角を借りてひらいて家と工房と
陶窯を築き、そしていくばくかの畑を持っていた。(-中略-)陶窯の崖下に小川が流れていた。
(-中略-)それは上流、戸隠山から流れ出る裾花川の支流であった。本流はすぐ目の前に四季たえな
る音を立て、岸には柳の緑が垂れ、その上に善行寺の棟がはるかに見えた。(-後略-)
この記述から、「朝日山」は、国土地理院地図では「旭山」と記されている山で、裾花川との関係から、旭山の南東側にあたる安茂里村の小柴見、平柴周辺に居を構えたと思われる。
『信濃毎日新聞』夕刊に連載された陶芸家・風間北光の記名記事「続・信州の焼き物-現代の陶工たち-」に、「内島北朗」が3回にわたって取り上げられている。
昭和52年(1977年)4月14日第4面 に第1回「松代焼の発見者」としての内島北朗が記されている。大正9年に長野市で個展開催。続く昭和5年に、二度目の個展が長野市善行寺大勧進の紫雲閣で開かれている。このころ、松代焼に出会ったようで、松代に窯跡を訪ねたり、記録を探したりして、各窯の本格的な調査と作品の菟集が行われ、松代焼の全容を明らかにしていったことが書かれている。これらの焼き物を「松代焼」と名付け、陶芸雑誌の『茶わん』に発表したとあった。
昭和52年(1977年)4月21日第4面 に第2回が掲載されている。長野での生活が記されており、疎開の動機、窯と住まいの様子、県の嘱託として軍需工場での食器制作の企画にかかわったことも書かれている。
昭和52年(1977年)4月28日第5面 には、内島北朗の経歴に触れた記事になっている。北朗の「浪、朗、琅」の使い分けなどにも触れている。
また、『長野市誌 第8巻』 長野市誌編さん委員会編 長野市 1997 【215.2/ナガ/8】 p.692-693に、「白土の利用」に、安茂里地区の白土について、江戸期の『物類品質隲(ぶつるいひんしつ)』に記載があり、「信濃水内(みのち)郡小市(こいち)村産上品色至テ精白ナリ」を引用している。最初は陶土として利用があったが、その後は薬品、染色等の材料となっていったらしい。
2 松代焼命名について
『陶房』 内島北朗著 桑名文盛堂 1942 [国立国会図書館デジタルコレクション 参加館・個人向け公開] に所収されている「松代焼に就いて」p.288-293(159-161コマ目)が昭和13年発表のものと思われる。
また、『しなのの陶磁器』 安藤裕著 信濃毎日新聞社 1982 【751.1/アヒ】 p.197-198に、「内島北朗」を紹介する項があり、上記「信濃毎日新聞」の記事を引きつつ、松代焼についての調査経過に触れ、
(-前略-)内島北朗は松代に藩窯があったことを知ると、ただちに風間氏を伴い、松代の寺尾名雲
の窯跡を探し、そこの桑園の中からおびただしい陶片を発見。これに勢いを得て天王山、荒神町の窯
跡も発掘調査し、謎に包まれていた松代の窯のアウトラインが知られるようになった。北朗はこれら
の調査結果に松代周辺の窯も加え、「松代焼」と題する一文をものし、陶芸専門誌『茶わん』に投稿
する。(-後略-)
と、発表誌を紹介している。
『茶わん』誌を所蔵している館が少ないため、国立国会図書館に照会したところ、内島北朗著「松代窯に就て」が、『茶わん』 第6巻第6号 1936.6 【国立国会図書館請求記号YA5-1060】(マイクロフィルム)pp.14-22 に所収されているとのこと。また、同じ巻号に松代焼の図版「蕎麦掻茶碗(原色版)」(※ページ付けなし(表紙を1コマ目として数えて5コマ目))もあり、p.98の図版解説には、詳細は内島北朗の記事を参照するよう記述されているとのこと。また、上記『陶房』所収の「松代焼に就て」の冒頭とは異なるとの情報提供があった。内容そのものの比較は依頼していないため、利用者自身で確認するよう案内した。
『松代焼』 唐木田又三著 信毎出版センター 1997 【N751/20】 p.5に、
ちなみに昔は松代焼という名はなく、寺尾焼とか天王山焼とか各窯ごとに名付けられていた。松代
焼という名称は昭和十年頃、京都の陶工内島北朗氏によって名付けられ、世に紹介されたものと言わ
れている。
とあり、またp.7 に、本人の作陶というよりは、収集した松代焼について、「内島北朗氏旧蔵品 83点」が松代町真田宝物館されている記載があった。同館に照会したところ、「原コレクション」の一部となっていて来歴は不明となっているため、内島北朗の作か判断できないとのこと。箱書きがあるものには、「内島北朗識」となっている。
3 疎開の動機について
上記1の「信濃毎日新聞」の連載第2回の記事にも
疎開の動機は、「松代焼」の素朴なローカルカラーに魅せられたこと、自己の作品に新しい分野を
ひらくため、新しい陶工と窯の燃料である松薪豊富であり、風景の美しいところであること、そし
て、長野県知事に同じ北陸の郡山主夫(石川県人=在職昭和18年1月-19年8月)が赴任し、同好の士
が数多くいたことがあげられる。
とある。
また、『頭寒足熱』 内島北朗著・刊 1978 【914.6/476】 の「長野県展を迎えて」に、
京都では陶窯に焚く松薪が手に入らず、糖度も不自由であり、昭和十七年松木の茂る信州へ移り住
んで直ちに朝日山の麓、裾花川の清流を眼下にする丘陵に陶窯を築いて製作品をつめて煙をあげた。
(-中略-)戦時中のことであり、疎開というよりも、信州の安茂里に陶工として骨を埋める覚悟を
もっていたのである。(-後略-)
と記している。
4 内島北朗の作品の所蔵館について
『信濃毎日新聞』 平成25年(2013年)9月12日 第24面に「俳句競った2人 紹介」として、小県郡青木村の青木村郷土美術館の企画展の記事があった。内島北朗の俳句と陶芸作品、青木村出身の俳人でジャーナリストの栗林一石路(いっせきろ)の俳句が展示されたようだ。この展示品について同館へ照会したところ、展示品の借受先については不明とのこと。内島北朗が作陶し一石路が自作の句「馬子と馬とのたるたると手綱ひとすぢ」を彫り込んだ菓子鉢が、同館の「栗林一石路資料展示室」に展示されている。内島氏の筆による箱書きには、「大正七年初秋 内島北浪造」とあるとのこと。
- 回答プロセス
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1 『長野県歴史人物大事典』で「内島北朗」の略歴を確認する。
2 郷土分類N751(長野県の陶磁器工芸)の書棚で松代焼の資料を調べる。『しなのの陶磁器』に、松代焼調査の様子や発表誌についての記述があった。また、『松代焼』に内島北朗が名付けたことと、松代焼を収集していたこと、コレクションが真田宝物館にあることが書かれていた。
3 所蔵資料を「内島北朗」で検索する。著作の中から、長野市に居住していたころに触れたものを探す。『頭寒足熱』に疎開の動機が、『東山だより』に所収されている「安茂里物語」に当時の思い出が綴られていた。長野市安茂里のどのあたりに住んでいたのかはっきりした地域名はないが、「安茂里物語」の記述から、おおよその地域が推定された。
4 『長野市誌 第8巻』や安茂里地域の区誌を調べるが、内島北朗に触れた記述はない。
5 当館契約の「信濃毎日新聞データベース」で「内島」「松代焼」等で検索し、該当記事を確認していく。夕刊に連載された陶芸家・風間北光の記名記事「続・信州の焼き物-現代の陶工たち-」に詳しく書かれていた。また、平成25年に青木村郷土美術館で企画展が行われたことを確認する。
6 国立国会図書館デジタルコレクションで参加館公開されている『陶房』で「松代焼に就いて」を確認する。目次に年代が入っており、昭和13年の執筆と思われる。
7 「続・信州の焼き物-現代の陶工たち-」で発表誌と明示している『茶わん』での初出を確認するため、所蔵館を探す。国立国会図書館所蔵とわかり、記事の掲載巻の確認を依頼する。
8 青木村郷土美術館に、展示した内島北朗が作陶した作品について照会したところ、借受先の詳細はわからないとのこと。ただ、同館に友人であり同村出身の栗林一石路との共作となる菓子鉢が所蔵されているとのことだった。
<調査資料>
・『泥中雑記』 内島北琅著 学芸社 1949 【最終確認2022.7.8 国立国会図書館デジタルコレクション 参加館・個人向け公開】
p.207-208 「私の號」に、「昭和十七年十二月廿五日に信州長野市安茂里に移ったと同時に朗を琅
にした。琅は琅玕の一字である。陶工にまんざら関係のない文字でもあるまい。字典によると、玉に
似たる美しき石、又竹の異名、玉のふれ合う声、琅玕は器物の面に焼き附ける釉薬、等とある。」の
記述がある。
・『壷屋草紙』 内島北朗著・刊 1929 【914.6/102】
・『光芒』 内島北朗著 桑名文星堂 1942 【911.3/319】
・『陶工の楽書』 内島北朗著 春秋社 1966 【914.6/474】
・『楽焼』 内島北朗著 創元社 1971 【751/ウ】
・『信州やきもの紀行』 ミケ房子著 信濃毎日新聞社 1999 【N751/31】
・『長野のやきもの』 愛知県陶磁器資料館 1997 【N751/26】
・『松代町史 下巻』 大平喜間多著 臨川書店 1987
(長野県埴科郡松代町役場 昭和4年(1929年)発行の復刻) 【N212/236/3】
p.202-204 陶器業についての記述があるが、原本の発行が昭和4年であるため、松代焼という名称
は見られない。
・『ふるさとの歴史 平柴と小柴見』 宮島治郎右衛門編・刊 1965 【N212/73】
・『安茂里史』 安茂里史編纂委員会 安茂里史刊行会 1995 【N212/308】
・『写真集 安茂里の100年』 安茂里地区市制100周年記念事業実行委員会 2000 【N212/351】
- 事前調査事項
- NDC
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- 陶磁工芸 (751 10版)
- 評論.エッセイ.随筆 (914 10版)
- 詩歌 (911 10版)
- 参考資料
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内島北朗 著 , 大山澄太 編 , 内島, 北朗, 1893-1978 , 大山, 澄太, 1899-1994. 東山だより : 内島北朗随筆集. 古川書房, 1986.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001813707-00 (【N940/163】) -
長野市誌編さん委員会/編 , 長野市誌編さん委員会 , 長野市. 長野市誌 第8巻. 長野市, 1997-10.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059361626-00 (【215.2/ナガ/8】) -
安藤裕 著 , 城取昌史 写真 , 安藤, 裕, 1923- , 城取, 昌史, 1923-. しなのの陶磁器. 信濃毎日新聞社, 1982.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001912494-00 (【751.1/アヒ】 p.197-198) -
唐木田又三 著 , 唐木田, 又三, 1926-. 信州松代焼. 信毎書籍出版センター, 1993.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002313662-00 (【N751/20】) -
内島 北朗/著 , 内島 北朗. 頭寒足熱. 内島北朗, 1978-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059302288-00 (【914.6/476】)
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内島北朗 著 , 大山澄太 編 , 内島, 北朗, 1893-1978 , 大山, 澄太, 1899-1994. 東山だより : 内島北朗随筆集. 古川書房, 1986.
- キーワード
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- 内島北朗
- 内島北琅
- 内島北浪
- 松代焼
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000318352