レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2000/02/28
- 登録日時
- 2005/12/13 02:11
- 更新日時
- 2010/11/25 02:00
- 管理番号
- 新県図-00058
- 質問
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解決
(1)江戸時代初期、越後~江戸へ徒歩で行くのにかかった日数、およびどの街道を通って行ったか。
(2)明治時代の県内の道路状況について。
A.明治16年ころの中条から新潟までのルート
B.明治20年代の新潟から東京までのルート
- 回答
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(1)『図説・新潟県の街道』『新潟県歴史の道調査報告書』シリーズほか
1.北国街道『図説佐渡の歴史』p152~153
2.三国街道『三国峠を越えた旅人たち』p128~136
3.会津街道『新発田市史』上巻p847~849
上記はいずれも大名、佐渡奉行に関する資料。
江戸時代初期の資料は少なく、一般庶民のものは確認できず。
(2)A.人力車で新潟まで出る方法と、人力車で葛塚まで行き、そこから蒸気船に乗って新潟に向かう方法とがあったようだ。
明治8年に新潟~葛塚間に蒸気船が就航して以来、経営者は変わっても昭和3年まで運航していたと思われる。
石川九八郎が明治18年に新発田から横浜へ旅をした記録が『新発田市史』下巻に載っている。それによれば葛塚で船に乗り換えている。
また、明治15年に新潟へ来ていた森鴎外が、新発田まで往復しているが、その時も似たようなルートだったことが、『森鴎外”北游日乗”の足跡と漢詩』(安田里香子/著 審美社 1999)によりわかる。
(2)B.明治初期、東京へ行くには(1)の3つのルートのいずれかが使われていたようだ。以下、鉄道が新潟まで開通するまでの間、実際にこれらの道を通った人たちの記録を紹介する。
1.明治8年 市島謙吉「私の初めて見た東京」「昔の旅」[『余生児戯』冨山房 1939 所収]
私は越後から会津道中で、古河で夜舟に乗った。其舟の両国橋下に達したのは翌朝の6時ころ…(「私の初めて見た東京」)
初めて祖父に伴はれて東京に遊学した時、宇都宮の某旅館…(「昔の旅」)
・江戸時代においては会津街道が川止めがなく、一番確実だったようだ。新発田藩主の参勤交代の道筋で、会津からは日光を抜けて宇都宮に出る。
2.明治11年 イザベラ・バード/著 『日本奥地紀行』(平凡社 2003)
鬼怒川沿いに歩いて五十里[いかり]で泊まり、横川~田島…と馬を乗り継いで、6月30日に坂下[ばんげ]に到着。騎馬旅行で野尻を越えて7月1日は車峠近くの宿屋に宿泊[以上要約]
3.明治15年 森鴎外「北游日乗」(前掲)
一行はこの日、関山から雪の山路を五里余り下って高田に着いた。[要約]
4.明治18年 石川九八郎「道中諸懸控帳」(前記『新発田市史』下巻 所収)
5.明治19年 フランス人ダグローの旅行(『仏蘭西人の駆けある記』井上裕子/訳 まほろば書房 1987)
8月21日 湯原を人力車で出発。湯檜曽…。
8月29日 人力車で柏崎から直江津に到着。直江津から汽車で関山…。
・清水越新道:東京~新潟間の道路整備で、三国越が、坂か急な上カーブが多いため、清水越新道を開くことにし、明治18年に完成。[『越のみち』より]
・信越線直江津~関山間の開通は明治19年8月
6.明治21年 内村鑑三の旅(『鈴木鑑三日記』上 鈴木範久/著 教文社 1993)
7.明治22年 西潟為蔵の旅(『雪月花』野島出版 1974)
12月12日 三条ヨリ汽船ニ乗リ与板ヘ上陸人力車ニテ発ス…
8.明治23年 西潟為蔵の旅(前記『雪月花』)
8月11日 五十嵐川船ニテ下リ一ノ木戸ヘ上陸…
・鉄道の直江津線は明治21年12月軽井沢まで達した。上野から横川までも開通しており、横川~軽井沢間は明治26年4月の開通まで馬車が走った。
・明治18年5月、越佐汽船会社が創立され、7月下旬進水の汽船を度津丸と名付けた。両津新潟間だけでなく新潟直江津間を就航した…。[『新潟県史』より]
・信越線が東京の上野から直江津までの時代には、駅前に人力車が百台もあったと聞いている…。[『直江津こぼれ話』より]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 江戸時代の越後~江戸の街道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 簡易な事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般利用者
- 登録番号
- 1000025759