レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/02/12
- 登録日時
- 2019/11/01 00:30
- 更新日時
- 2019/11/01 00:30
- 管理番号
- 参調 19-0005
- 質問
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解決
①「明治」という元号を発案し、定めたのは誰(もしくはどの機関)なのか。
②江戸が東京と改められたとき、江戸城も東京城と改められたが、改称をしたのは誰(もしくはどの機関)なのか。
③「東京」という名称はどういう由来で決められたのか。
④明治2~3年ごろに、蝦夷地が北海道と改称されたような事例が全国で他にもあればその内容を知りたい。概要でかまわない。
- 回答
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①
◆「明治」という元号の由来について『元号事典 新版/ 川口謙二,池田政弘(東京美術,1986)』により確認。
1.『周易』“説卦伝”の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」。
2.『孔子家語』“巻五 五帝徳 第二十三”の「長聡明、治五気、設五量、撫万民、度四方」。
これらから「明」と「治」の二字をとったもの。
◆明治神宮webサイトQ&A『「明治」の由来はなんですか?』
(http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/07.html 2018/2/11確認)より以下に引用。
「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。翌八日の一世一元※(天皇御一代に一つの元号とする制)の詔で「明治」と改元されたのです。
「明治」の意味は聖人が南面して政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる、と解されています。
※一世一元 明治以前までは年号が頻繁に変わっていましたが、大阪の学者中井竹山が『草茅危言』(そうぼうきげん)で初めて頻繁に改元する従来の弊風を改めることを主張しました。また水戸の藤田幽谷の『建元論』にも記されています。幕末には、石原正明や広瀬淡窓も同じ考えを述べており、維新直後、岩倉具視の努力で実現しました。
◆『年号の歴史/所 功(雄山閣出版,1989)』より以下に引用。
新政府副総裁の岩倉具視は、平安意向の「改元定」の儀における公卿の難陳論議を「繁褥ノ流弊」として廃止することを提案し、明治天皇の裁可をえた。
そこで、「菅原家ノ堂上」に命じて奉らせた年号勘文の中から議定の松平慶永が2、3の良案を選び出し、それを上奏した。天皇は七日夜、宮中の賢所において、その良案中から「明治」の号を抽籤された、というのである。
◆『元号考証/滝川政次郎(永田書房,1974)』より以下に引用。
改元を行なう手続き及び儀式を総称して「改元の定(さだめ)」という。(中略)およそ改元には、改元定の前数日、年号勘者の宣下があって、式部大輔、文章博士及び学識ある公卿(儒卿)をして勘文を献らしめる。勘文は、経史によって好字を択ぶものであって、その書式は家々によって些少の差がある。すでにして勘文集れば、諸卿を陣の座に召し集め、勘文についてその優劣を論争せしめる。これを諸卿の難陳というが、難は非難攻撃、陳は弁護の陳弁の意である。難陳の語は、蔵人に付して奏聞し、聖断によってこれを決する。
明治天皇は、明治改元の際、いずれとも決しかね給い、くじを引いてこれを決せられたというが、くじで決めるというのは、神意を問うてこれを決することであって、立派な聖断である。聖断によって年号が定まれば、内記が改元の詔を草し、諸卿副署し、太政官より両京五幾七道に布告してこれを人民に知らしめるのである。
②
慶応4年(1868)7月17日、「江戸ヲ東京ト称ス(江戸ヲ稱シテ東京ト爲スノ詔書)」において「朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江?ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ?ルヘシ因テ自今江?ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ??一家東西同?スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ」と布告された。この詔書により、江戸は政治を指導する天皇が直接赴く「東国第一の大鎮(だいちん)」として位置付けられたうえで、東京と定められた。
明治元年10月13日、明治天皇が京都から東京へ「遷都(奠都)」し朝廷軍(新政府)の一部と供に江戸城内西の丸に到着。江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称され、太政官布告840号として「江戸城ヲ東京城ト称セシム」と発表された。
以上は、国立公文書館デジタル展示『変貌-江戸から帝都そして首都へ-』(http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/henbou/index.html 2018/02/12確認)及び、国立公文書館デジタルアーカイブにより確認。
③
◆『「みやこ」という宇宙 都会・郊外・田舎/園田英弘(日本放送出版協会,1994)』の『「東都」の出現』という章の一部を以下に要約。
江戸が大都会、東国の中心地になるにつれて「都」と呼ばれはじめ、現在の東京を「あづまの都」と呼んでいた例も多くあったことが村田春海『織錦斎随筆』、高田与清『松屋棟梁集』収録の「東都称呼弁」などで確認できる。
古代から慶応3年までの日本の書物の総合目録『国書総目録』では「東都」という言葉がタイトルに含まれる文献が139件あり、そのうちの多くが19世紀初頭の文化文政紀に書かれたものである。
またさらに、この時期の「東都」という言葉の使用頻度に関して『江戸図総目録』によれば、多く使用例が見られるのは文政12(1829)年以降のものであり、出版地名などにおいて「江戸」と言うべき部分を「東都」と称していたケースが見られる。この時期、圧倒的多数は出版地名に「江戸」を使っていたが、幕末になるにしたがって「東都」を使う頻度が増加していく傾向にあったようだ。
◆『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都/佐々木克(講談社,2001)』より以下に要約。
遷都に関する話で、東京という呼称がもっとも早くみられるのが、大木喬任と江藤新平が連名で岩倉具視に提出した意見書「東京奠都の議」であり、この文中に、「江戸城を急速に東京と定める」という表現がある。また、この意見書で二人は「東西両京の設置」「両京間の鉄道敷設」を提案しており、西の都である京都に対しての東の都=東京と捉え、天皇が東西二つの都を行き来して政治を行うことを想定していたようである。
また同意見書により、「天皇の行幸」が提案され、その後実際に天皇の東への行幸「東幸」が行われることが決定した。このように、天皇が時々に行幸する東の地が東の都=東京であり、「江戸を東京と改称した」というよりは「江戸を東京と定めた」ということである。
④『47都道府県・地名由来百科/谷川彰英(丸善出版,2015)』によると、
明治以降の改変の歴史は
1.「府藩県三治制」慶応4(1868)年
2.「版籍奉還」明治2(1869)年
3.「廃藩置県」明治4(1871)年
という流れで進められていった。
廃藩置県では廃藩によって3府302県ができたが、同年11月までに統廃合を繰り返し3府72県にまでに整理された。
その過程でどこに県庁所在地を置くか、どの地域の名称を県名にするかで各地域ごとに議論がなされ、
すぐに現在の県の形になった地域もあれば維新後何年もの時間がかかった地域もあり、廃藩置県以降の状況は各都道府県によってまったく異なるとのこと。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 7版)
- 参考資料
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- 1 年号の歴史 所功∥著 雄山閣出版 1989.4 210.02/NE
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2 元号考証 滝川政次郎∥著 永田書房 1974 210.095/TA -
3 元号事典 新版 川口謙二,池田政弘∥著 東京美術 1986.8 210.02/G -
4 江戸が東京になった日 佐々木/克?著 講談社 2001.1 210.58/E -
5 「みやこ」という宇宙 園田英弘∥著 日本放送出版協会 1994.4 361.48/MI -
6 47都道府県・地名由来百科 谷川/彰英?著 丸善出版 2015.1 291.0189/Y -
7 旧国・県名の誕生 加藤巳ノ平∥編 令文社 1974 291.034/KA -
1 江戸城 その全容と歴史 西ケ谷/恭弘?著 東京堂出版 2009.9 521.823/E -
2 日本近代の歴史 1 維新と開化 大日方/純夫?企画編集委員 源川/真希?企画編集委員 吉川弘文館 2016.10 210.6/NI/1 -
3 都道府県名と国名の起源 吉崎正松∥著 古今書院 1972 291.034/Y -
4 日本随筆大成 第1期 3 日本随筆大成編輯部∥編 吉川弘文館 1975 914.5/NI/1-3 -
5 日本随筆大成 第1期 5 日本随筆大成編輯部∥編 吉川弘文館 1975 914.5/NI/1-5
- キーワード
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- 元号
- 遷都
- 東京都
- 廃藩置県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事項調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000263273