レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年09月13日
- 登録日時
- 2021/09/26 00:30
- 更新日時
- 2024/03/16 00:30
- 管理番号
- 7321007555
- 質問
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解決
津守新田の開発について知りたい。
- 回答
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「津守新田」について記述があった資料を以下にご紹介します。
(1)『大阪の歴史』1980年12月号・2号(大阪市史編纂所/編集 大阪市史料調査会 1980.12)
p.92-94に「河村瑞賢らにより企画された大坂川口海表新田の一つ」とあり、元禄十一(1698)年、万年長十郎・小野朝之丞立会で定められた大縄五八七町歩を、京都の人横井源左衛門・金屋源兵衛が、地代金一二五〇両で落札請負い、三か年にわたり字南島・北島の周囲に総堤を築き、新田を開発・造成したと記載されています。また、元禄15(1702)年検地を受け、その石高は445石7斗1升8合であったとあります。
(2)『西成区史』(川端 直正/編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968)
p.19-22に「津守新田は初め木津川の前の島だからというので、木津川島新田といわれたが、のち袴屋新田となり炭善の所有後は再び津守新田と称された。」とあります。津守新田は、宝永4(1707)年10月4日大地震が起こり、新田の南島の堤防が破壊されて南島は流失し、北島の堤も破壊され海水が流入して、新田全部が波浪にさらわれることとなりました。このため経営難になり、宝永4(1707)年、湊屋久兵衛に津守新田の経営を譲渡しました。湊屋は北島堤防の復旧につき、土堤をやめて石堤とし石を亀甲形に積んだ石垣を作りました。一方南島は手つかずで湊屋は結局、享保18(1733)年に親族の袴屋弥右衛門に新田を譲渡しました。袴屋の工事は古船に大石を積込みそのまま沈めて基礎をつくりその上に亀甲形の石垣堤を築きあげるという8年もの大工事で元文5(1740)年に漸く完成しました。この功績により津守新田はその後長い間袴屋新田と呼ばれました。その後この新田復旧工事費用が多額であったので新田経営の維持が困難になり、天明4(1784)年7月に白山家の祖である炭屋善五郎に譲渡され、再び津守新田と称されたとあります。
(3)『座談会津守を語る会の記録』
p6に白山殖産が土地を所有していたと記述があります。
(4)『白山家のあゆみ』(白山殖産株式会社/[編] 白山殖産 1984)
p38-52「津守新田の開拓」に白山家が経営する以前の開拓について記載されています。p52「新田経営、白山家に譲る」の項に、天明2(1782)年に起こった大洪水を契機に、白山家が新田経営することとになったとあります。p53-94「白山家の新田経営と家訓」として、白山家による津守新田の経営と変遷が記載されています。
- 回答プロセス
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1.当該区史を確認した。資料(2)
2.当館所蔵検索システムにて、フリーワード“津守”で検索し、資料(3)が見つかる。
3.白山殖産が土地を所有していたという記述が資料(3)にあり、当館所蔵検索システムにて、フリーワード“白山殖産”で検索し、資料(4)が見つかる。
4.大阪の歴史第80号総目次より資料(1)を確認した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <5100000966> [巻号] 大阪の歴史 1980年12月号 / 2号 大阪市史編纂所/編集 大阪市史料調査会 1980.12 資料(1)
- 当館書誌ID <0070080431> 西成区史 川端 直正/編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 資料(2)
- 当館書誌ID <0080191306> 白山家のあゆみ 白山殖産株式会社/[編] 白山殖産 1984 資料(4)
- 当館書誌ID <0000281618> 座談会津守を語る会の記録 [大阪市]西成区役所総務課/[編] [大阪市]西成区役所総務課 [1992] 資料(3)
- キーワード
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- 大阪府大阪市西成区
- 津守新田
- 河村瑞賢
- 金屋源兵衛
- 横井源左衛門
- 袴屋弥右衛門
- 炭屋善五郎
- 白山家
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000305117