レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月08日
- 登録日時
- 2012/02/08 12:02
- 更新日時
- 2013/09/05 16:21
- 管理番号
- 97-B-5
- 質問
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解決
大西町(越智郡大西町。現在は今治市大西町)の重茂山とキリシタンに関わる伝説を知りたい。
- 回答
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【資料2】に記載されている重茂山城主岡部十郎に関する伝説によると次のとおり。
天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐の際、当時の城主岡部十郎は、豊臣の将や小早川隆景の軍に攻められて落城し降伏した。この時、岡部十郎には一人の美しい姫があり大そうかわいがっていた。山之内の「上の城」に住まわせるため館を建設している時に戦争となり、十郎は奮戦したが衆寡敵せず落城が迫ったので、姫を乳母と共に建設中の上の城に逃がした。2人は夜の闇にまぎれて上の城に向かって逃げる途中、敵兵に出会い、萱の中に身を隠していたが被っていた管笠のために見つけられて取り囲まれてしまった。姫は捕われる前に武士の娘らしく自害して果てた。村人は後にそこに祠を立てて姫の霊を祀ったのが、衣笠の弁天であるという。その衣笠の弁天堂の前の庭に、マリヤキリシタンの石像といわれる石碑が1基祀られている。岡部氏はキリスト教信者であったらしく、その当時このあたりにはキリスト教の信仰が広まっていたのであろう。
- 回答プロセス
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・【資料1】でキリスト教伝来の経緯を調べる。
天文9年(1540)、日本にキリスト教が伝わった。当時は織田信長をはじめ諸国所大名が群雄割拠、転化を制覇せんとするせんとする時代であり、新しい西洋の文化をもたらすキリシタン(ポルトガル語でキリストの教え、キリスト教の信者)は、多くの大名や民衆にすこぶる歓迎された。というのは、キリシタンは当時大名たちには彼らが強く求めていた文明と武器とを貿易により供給したし、戦乱におののく民衆には、不安を解き平安を与えたからである。最も仏教徒の抵抗があり、すべて順調に教勢が伸びたわけではなかったが、九州、中国、そして京都の地方には、信者が生まれ教会堂が建っていった。しかし、四国は意図的な宣教の地ではなかった。言い換えれば四国は、全く偶然の機会に布教が始まったといってよいのである。とある。
・【資料2】を調べると、伊予と海をへだてた隣国の周防(山口県)の大名大内義隆や、豊後(大分県)の大友宗麟は熱心な信者で、キリスト教はその領内にひろまった。大内氏は伊代の大名河野氏との連盟の間柄にあり、また大友氏は勢いにまかせて南予地方に侵入して領有した時期があった。このような関係でわが伊予にもキリスト教が伝来し信者が次第に増えていった。河野氏の武将であった重茂山城主岡部十郎等も信者であったと伝えられている。その後、豊臣秀吉や徳川家康が国防上の見地から厳禁した。民衆は全て宗門改めを受けて、檀那寺の宗門人別帳に登録された。このために信者(キリシタン)の中には表面は仏教を信じている如く見せかけ、人知れずかくれてキリスト教を信仰する者があった。これを俗にかくれキリシタンといわれた。伊予国でも、かくれキリシタンの遺跡が所々に発見され高縄半島には特に多く発見されている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 布教.伝道 (197 9版)
- 四国地方 (218 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】 『愛媛県史 学問・宗教』 愛媛県史編さん委員会/編集 愛媛県 1985年 <請求記号:K200 /31>
- 【資料2】 『大西町誌』 大西町誌編纂委員会/編集 大西町教育委員会 1977年 <請求記号:K292.2 /17>
- キーワード
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- 岡部十郎 おかべ,じゅうろう
- かくれキリシタン(大西町) かくれきりしたん(おおにしちょう)
- 重茂山 じゅうもさん
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 事例出典『郷土資料に関する調査・相談事例集』 愛媛県図書館協会・愛媛県立図書館/編集 愛媛県立図書館 1997年
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000101222