レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/10/25
- 登録日時
- 2022/12/21 00:30
- 更新日時
- 2023/01/29 08:21
- 管理番号
- 北方 22-0023
- 質問
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解決
『李志恒「漂舟録」について』の一般注記に「1696年に礼文島に漂着」とあるが、年代と島名について確認したい。
- 回答
-
回答資料1の現物を確認したところ、この論文の冒頭に、「元禄9(粛宗22、1696)年5月、蝦夷地に漂着した朝鮮人李志恒の残した日記が「漂舟録」である。」と記載あり。
回答資料2の論文「李志恒『漂舟録』にみえる「石将浦」について」(『帯広百年記念館紀要』 第25号 別刷)p.1あるいはp.2に礼文島のことが記載されている。
ウェブでも閲覧可能。該当部分は次のとおり。
http://www.cho.co.jp/natural-h/download/archive/obihiro/ocm25_01.pdf (2022/10/25最終確認)
以上が、『漂舟録』の記す李志恒の行動である。彼らについては、日本側に対応する史料がいくつか残されている(松本・三浦・東2006)。最もまとまっているのが、『福山秘府』巻之30~31の朝鮮漂人部上・下である(北海道庁1936)。以下、同書に従って李志恒一行の行動を辿ってみよう。まず、李志恒が東莱府を出発したのは、4月13日であり、28日に強風に会い流された。途中で日本の大きな船に出会って食料や水を貰い、その船について進んでいたが、強風ではぐれてしまった。5月12日に、日本の北の土地にたどりついたとある(1)。この地とは「レフンシリ」、つまり礼文(れぶん)島のことであろう(2)。李志恒は漂流して12日目に陸に着いたと記しているが、実際には14日目である「レフンシリ」から「リイシリ」を経て、5月13日に「ソウヤ」に着いた。「リイシリ」は利尻島、「ソウヤ」は宗谷である。
※註(1)(2)は省略。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 日本 (291)
- 参考資料
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- 1 李志恒「漂舟録」について 池内 敏∥著 鳥取大学教養部 1994.11 210.04/I
- 2 李志恒『漂舟録』にみえる「石将浦」について 中村 和之∥著 帯広百年記念館 2007.3 P291.034/I
- キーワード
-
- 李志恒
- 漂舟録
- 礼文島
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事項調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000326084