レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年10月24日
- 登録日時
- 2016/02/27 11:44
- 更新日時
- 2016/02/27 11:56
- 管理番号
- 相橋-H27-064
- 質問
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解決
尾崎咢堂(行雄)の父・行正が尾崎家に婿入りしてからの生活について知りたい。
(1858~1868年頃、名主の家でどのように家系に貢献したのか、板垣退助の軍に入隊した経緯等)
また、行雄が又野村で過ごした幼少期にどのような教育を受けたのか知りたい。
- 回答
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①から⑤の資料を提供した。また、以下の内容を要約して回答した。
祖父・行直の時代から尾崎家は零落しており、父・行正は又野で寺子屋を開いていた。1861年の火災後は母・貞子の養蚕や織物によって、支えられていた。
1868年、板垣退助の軍が甲府に入って、討幕軍への志願者を募った際、甲府の浪人を組織して従軍した。
幼少期の行雄は母から基本的な教育を受け、父から素読や文字を教わった。
- 回答プロセス
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郷土資料の棚をブラウジングし、次の資料を見つけた。
①『咢堂・尾崎行雄の生涯』 西川圭三/著 論創社 2009 (自館請求記号:K1-28)
p4から10に父・行正の青年時代、行雄の幼少~少年時代について、それぞれ以下の内容が載っている。
行正について…青年期、江戸漢学者・藤森弘庵の門に学ぶ。又野村の尾崎家に婿入り後は、国学者・落合直亮や後の津久井郡長の吉野十郎と親交するうちに、勤皇運動に傾倒する。
行雄について…尾崎家は里正(名主)であったが、2~3歳のころ大火によって家屋敷・家財道具が焼失し、没落する。能筆家で漢学の素養の深かった父から、素読や文字を教わった。1868年、父の許に上京し、父の上司・安岡良亮から「七書」の講義を受け、水戸出身の山内老墓に和学を学ぶ。平田篤胤主催の平田塾で古典を学ぶ。1971(明治4)年、安岡の転任に伴い、伊勢に移り、宮崎文庫英学校で英語を学ぶ。
②『咢堂尾崎行雄ものがたり』 大塚喜一/著 つくい書房 2002 (自館請求記号:K1-28)
p20~24に行正について以下の内容が載っていた。
行正は又野の家で寺子屋を開いていた。勤皇浪士との交わりが広かった。1868(慶応4)年板垣退助の軍が甲府に入ったとき、地元民に呼びかけて討幕軍への参加の志願者を募集すると、願い出て従軍している。
p19に祖父・行直について以下の内容が載っている。
祖父の時代に家計が乱れ、土地も減らし、貧しい生活になっていった。
③『尾崎行雄』 上田博/著 三一書房 1998 (自館請求記号:K1-28)
p19から幼少期の行雄についての記述がある。
自伝からの引用があり、自宅焼失時の年齢が7~8歳とある。
p22で祖父の代の零落にも触れている。幼年時代の行雄は「学問らしい学問をするでもなく」過ごしたとある。
④『憲政の人・尾崎行雄』 竹田友三/著 同時代社 1998 (自館請求記号:K1-28)
p12に幼少期、父、祖父についての記述がある。
自宅焼失後、八王子の峯尾家を頼った。1868年2月、官軍の江戸への進撃がある。第二軍板垣隊が甲府から八王子近くへ下るとき、土佐兵らは三千近くに膨れ上がる。その中に安岡良亮がおり、行正は甲府の浪人を組織して「断金隊」を作り、安岡の配下に入った。
p16に、相模時代、行雄に「唐詩選」を読ませるとある。
⑤『咢堂言行録』 石田尊昭/著 時事公論社 2010 (自館請求記号:K1-28)
p14に、以下の内容が名乗っている。
1861年の火事後、家計は母・貞子の養蚕や織物によって支えられていた。山間地で学校もなく、基本的な教育を施したのは、基本的には母親である。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289)
- 参考資料
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- 『咢堂・尾崎行雄の生涯』 西川圭三/著 論創社 2009
- 『咢堂尾崎行雄ものがたり』 大塚喜一/著 つくい書房 2002
- 『尾崎行雄』 上田博/著 三一書房 1998
- 『憲政の人・尾崎行雄』 竹田友三/著 同時代社 1998
- 『咢堂言行録』 石田尊昭/著 時事公論社 2010
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000188653