レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年01月18日
- 登録日時
- 2022/09/03 14:47
- 更新日時
- 2022/09/03 14:49
- 管理番号
- 0000002322
- 質問
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解決
福井藩の大庄屋・山室家について知りたい。
(1)大庄屋だったのは、いつからいつまでなのか。
(2)大庄屋だったときに支配していた村数はどのくらいか。
- 回答
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大庄屋・山室家についての資料は無し。デジタルアーカイブ福井の資料群解説や個々の古文書年代より、次の通り回答。
(1)1805年(文化2)頃-1834年(天保5)
(2)山室家が大庄屋となる前の1792年当時、支配下の村数は46か村(丹生郡内26、南条郡内20)、石高合わせて14,700石余
- 回答プロセス
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・「デジタル歴史情報(「福井県史通史編」ほか)」、蔵書検索、郷土書架(福井藩史、南条郡史~越前市史、家伝)→無し
・デジタルアーカイブ福井より、資料群の解説や個々の古文書に「山室林右衛門」の名前あり。
資料群「福井県立歴史博物館(馬場家旧蔵)文書」の解説に、次の通り記載あり。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-290165-0
”当家は源右衛門を称することが多く、1789年(寛政1)頃大庄屋となり、1805年(文化2)9月まで務める。その後、34年(天保5)5月、粟田部騒動の後退役した北小山村山室林右衛門の後任として再び大庄屋となり、幕末にいたる。1792年当時の支配下の村数は46か村(丹生郡内26、南条郡内20)、高合わせて14,700石余であった。1872年(明治5)戸長、74年副戸長となる。”
上記解説から、1805年(文化2)に馬場家から大庄屋を引き継いだのは誰かは不明だが、デジタルアーカイブ福井には、上記資料群のほか、大庄屋としての「山室林右衛門」関係の古文書として下記年代のものあり。
1813年(文化10)、1820年(文政3)、1822年(文政5)、1827年(文政10)
以上より、山室林右衛門が大庄屋となっていたのは1805年-1834年と推測し、裏付けとるべく他資料を探すが、見当たらず。
- 事前調査事項
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『うるわしき神山』(神山地区自治振興会 2021.4)p225に、山室家(山室林右衛門)から馬場家に大庄屋が変わったことが掲載されている。
- NDC
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- 北陸地方 (214 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000320866