レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年01月15日
- 登録日時
- 2019/01/15 19:38
- 更新日時
- 2023/09/01 09:14
- 管理番号
- 2075
- 質問
-
解決
以前、図書館のある蔵書のp.232より「尼崎市の『楽馬塚』は大正年間に住宅地になった。古老の説もある。」という文をノートに書き写した。
書名も記録することを失念していたため教えてほしい。
- 回答
-
書名は『立花志稿』(寺坂五夫/編 立花村役場 1940年)。
p.231~232に類似の記述がある。
- 回答プロセス
-
質問者が既に調べた『尼崎市史 第11巻』(渡辺久雄/編集代表 尼崎市役所 1980年)p.277を確認。
尼崎市の各古墳跡が紹介されており、
「楽馬塚…塚口字楽馬(現塚口町三丁目)に伝えられていた楽馬塚(らくばづか)(江戸時代の『摂津志』では落馬塚)は、大正年間までは楽馬山とよばれる古墳として残っていた(『立花志稿』)ようで、長さ二七メートル、幅九メートルの規模をもっていたと伝えられている。現在、遺構はなく、また原形もわからない。」
とある。
また、p.232には楽馬塚との関連がない「水堂前方後円墳」の写真が掲載されていた。
上記の文中に登場した『摂津志』または『立花志稿』が当該資料と推測。
図書館システムでキーワード「摂津志」や「立花志稿」を検索すると、当館所蔵の『立花志稿』(寺坂五夫/編 立花村役場 1940年)が見つかった。
現物を確認。
「第五篇 古跡及古墳墓」で尼崎市の各古跡、古墳墓が紹介されており、p.231~232に「樂馬塚…前記(「攝津志に、落馬塚琵琶塚在塚口村と載せられ、~」)の如く、攝津志には、落馬塚と記せり、古老の言に依れば、樂馬山と、稱する古墳、字樂馬に殘り居りしが、大正年中塚口住宅地經營に際し、取除かれ今僅かに地名のみを存せり。」とある。
文自体は質問者が書き写したものと異なるが、内容は類似する。ページ番号も合致している。
質問者に記載箇所を確認してもらったところ、この本で間違いないとのことだった。
- 事前調査事項
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質問者は『尼崎市史 第11巻』p.277を確認済。本書ではないとのこと。
- NDC
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- 近畿地方 (216 10版)
- 参考資料
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- 立花志稿
- 尼崎市史 第11巻
- キーワード
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- 地名
- 遺跡・遺物-尼崎市
- 楽馬塚
- 落馬塚
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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当館では所蔵していないが、国立国会図書館デジタルコレクション収録の『摂津志』(『日本輿地通志畿內部 卷第五十六 攝津國之八 河邊郡』)(※)に、「落馬冢琵琶冢在塚口村」という文が見える。
「冢」は『字通』(白川静/著 平凡社 1996年)p.1109によれば「塚」の正字で、『尼崎市史 第11巻』や『立花志稿』の情報どおり、「落馬塚琵琶塚在塚口村」と読める。
当箇所以外の楽馬塚に関する記述は見当たらず。
・国立国会図書館デジタルコレクション『五畿内志 下巻(日本古典全集 第3期[第14])』(並河永/著、正宗敦夫/編纂校訂 日本古典全集刊行会 昭和5年)106コマ
(https://dl.ndl.go.jp/pid/1179444 )
このほか、『摂津名所図会 六 河辺郡』にも「落馬塚…同村(塚口村)にあり。」と書かれている。
・当館蔵書『摂津名所図会 下巻』(秋里籬島/著 臨泉書店 1974年)p.152
・国立国会図書館デジタルコレクション『攝津名所圖會 [8]』(秋里籬嶌/著述、竹原春朝齋/圖畫 森本太助[ほか4名] 寛政8-10[1796-1798]年)33コマ
(https://dl.ndl.go.jp/pid/2563466 )
※『摂津志』=「日本輿地通志畿内部(通称五畿内志)のうち摂津国分。巻四九から巻六一まで。」
・コトバンク項目「摂津志」(出典:平凡社『日本歴史地名大系』)
(https://kotobank.jp/word/%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%BF%97-3077520 )
インターネットのリンク確認日:2023年7月7日
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000250208