レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/03/16
- 登録日時
- 2022/04/04 00:30
- 更新日時
- 2022/04/04 00:30
- 管理番号
- 6001011522
- 質問
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解決
大正から昭和中期の西小学校区のことについて知りたい。例えば中央図書館の場所には以前何があったのか。
- 回答
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昭和初期の倉敷市街図が『倉敷市案内 昭和四年版』巻頭折り込みにある。『絵図で歩く倉敷のまち』も参照すると、現在中央図書館がある敷地に、当時は「倉敷小学校新川校舎」「県立商業学校」があった。
昭和35(1960)年から昭和55(1980)年までは丹下健三設計の旧市庁舎本館があり、この時代も水道局はしばらくの間、西小学校が現在地に移転するおりに解体を免れた木造校舎を転用していた。
『くらしきまち歩きさと歩きマップ』西学区には、学区の歴史を巡るコースなどが紹介されている。
学区である中央1・2丁目の旧町名は御船町。倉敷代官所の船主屋敷があったところから名づけられたという。御船町の町名は、昭和10年の町区改正から昭和47年の町名変更まで存在した。
『倉敷の民話・伝説』に「人島」の伝説が載っている。この伝説によると、現在の西小学校校庭東部付近は昔東高梁川の水脈筋にあたっていた。川の中ほどに大きな高い岩があったが、あるとき川が氾濫し、その岩にすがりついた人もやがて水にのまれてしまった。こういうことが度重なり、幽霊が出るという話が伝わって、この岩は「人島」と呼ばれ恐れられるようになった。明治26年に大原孝四郎が新渓園を作ったとき、水難者の供養が行われ、岩の頭2メートルほどを切り取って新渓園の庭園内に移したという。
この本や『角川日本地名大辞典 33』に「東高梁川の水脈筋」とある。近現代の東高梁川川筋はこの地にはないが、『岡山平野の歴史地理』によると、東高梁川の一分流がかつて向山の西に流れていたらしい。その延長線上に澪筋ができ、倉敷は澪筋を遡行できる限界点に位置していたという。p28中世末の地勢図にこの旧河道が書き込まれている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 絵図で歩く倉敷のまち倉地克直/著吉備人出版 (p89~112)
- 倉敷市案内昭和四年版倉敷市役所/編倉敷市役所 (巻頭地図)
- くらしきまち歩きさと歩きマップ倉敷市保健所健康づくり課 (西学区)
- 倉敷市史5永山 卯三郎/著名著出版 (p820)
- 倉敷歴史文化のまちしるべ倉敷市
- 角川日本地名大辞典33「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編角川書店 (p1090)
- 倉敷の民話・伝説森脇 正之/編著倉敷文庫刊行会 (p89~91)
- 高梁川史建設省岡山河川工事事務所/著国土交通省 岡山河川事務所
- 岡山平野の歴史地理植松 岩實/著 (p30)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000314704