レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/02/02
- 登録日時
- 2022/03/30 00:31
- 更新日時
- 2024/03/30 00:42
- 管理番号
- M22020415115167
- 質問
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ヒッタカと源平合戦がどのように関係しているのか知りたい。
- 回答
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①『岡山県大百科事典』の【ひったか】には、「笠岡市金浦西浜地区で旧5月5日(近年はこれに近い土曜日)夜に行われる火祭り。名称は松明を山上で高く掲げて焚くという意味の<火を高く焚く>が<ひったく><ひったか>に転訛したものらしく、江戸時代以前から始まったと思われる。」と書かれている。
②『笠岡の文化財』、「金浦のヒッタカ」について、「伝承によれば、寿永3年(1184)、西浜にあった陶山城の平家方と讃岐国から押しよせて来た源氏方との間に海戦が行われたとき、平家方は付近の山にかがり火を焚き大軍に見せかけて源氏方を退散させたという。この故事から、源平に見立てた東西2軍がたいまつを焚き気勢をあげ競う行事になり、現在のヒッタカに変容したという。」と書かれている。
③『ヒッタカ 笠岡市指定無形文化財記録保存報告』、④『高梁川』第41号には、ヒッタカの起源について書かれている。③『ヒッタカ 笠岡市指定無形文化財記録保存報告』の「ヒッタカの起源」には、「伝承によれば、一ノ谷の合戦で平家が敗走後の寿永3年(元暦元年)(西暦1184年)、平家の武将、越前守三位平通盛と能登守教経とが、金浦地区(魚渚郷)の西浜にあった陶山城において、兵を集め、平家の再蜂起を計っていた。この期に源氏方に通じていた讃岐国の在庁等が水軍二千余りで陶山城を海から攻めたて、激しい海戦が展開された。通盛らは味方の劣勢を補うために、附近の山一帯に、かがり火を焚いて大軍と見せかけ、敵を欺いて退散させたという。その後、白のぼりをたてて源氏に見たてた東の行者山軍と、赤のぼりをたてて平家に見立てた妙見山軍との源平二軍に別れて相対陣し、松明を焚き、気勢を揚げ競うようになったという。」と書かれている。
⑤『金浦要覧』には、「もとより正確なる記録も無く、何百年も前から口から口へと伝え残されたものであってその沿革に就ては勿論不明な点が多々あり」と書かれている。しかし、「此の行事が源平の合戦に因を発している事は勿論何人も否めない事実であり、行事の内容そのものが如実にそれを物語っているのである」とある。また、源平合戦に起因することを立証するものとして、『古戦場備中府志』の記述を挙げている。
⑥『吉備群書集成 第5輯 雑部』にて『古戦場備中府志』の記述を確認できる。
⑦『笠岡市史 第4巻』には、ヒッタカの起源について、「源平両軍の海戦にもとづく説以外に、山頂の八大龍王を拝むので、鎮魂と五穀豊穣を祈る農耕儀礼かという説もあり、他に新川の開削を記念しての行事という説もある。」と書かれている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 年中行事.祭礼 (386 9版)
- 参考資料
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①岡山県大百科事典編集委員会『岡山県大百科事典 下 た?ん』岡山 山陽新聞社,1980,1462p. 参照はp.591.
②笠岡市教育委員会文化課『笠岡の文化財』笠岡 笠岡市教育委員会,2004,95p. 参照はp.50.
③ヒッタカ記録保存委員会『ヒッタカ 笠岡市指定無形文化財記録保存報告』笠岡 ヒッタカ記録保存委員会,1978,34p. 参照はp.7-8.
④佐藤米司「源平合戦と白川踊り オシグランコとヒッタカ」『高梁川』第41号,高梁川流域連盟,1984.1,p.30-41.
⑤金浦商工会『金浦要覧』金浦町(小田郡) 金浦商工会,1936,116p. 参照はp.93-100.
⑥吉備群書集成刊行会『吉備群書集成 第5輯 雑部』 作陽書房,1978,571p. 参照はp.186-187.
⑦笠岡市史編さん室『笠岡市史 第4巻』笠岡 笠岡市,2003,975p. 参照はp.888-894.
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①岡山県大百科事典編集委員会『岡山県大百科事典 下 た?ん』岡山 山陽新聞社,1980,1462p. 参照はp.591.
- キーワード
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- 祭り オシグランコ 治承・寿永の乱
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- M2022020415184915167
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 全年齢, 高校生, 中学生
- 登録番号
- 1000314266