レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年07月16日
- 登録日時
- 2016/01/27 14:39
- 更新日時
- 2016/05/19 14:06
- 管理番号
- 埼熊-2015-146
- 質問
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未解決
昭和2年10月30日の「黄金の鬼子母神、廃寺から発見」という以下の記事の出典が知りたい。
「黄金の鬼子母神 廃寺から発見
秩父郡槻川村字皆谷の廃寺光官寺の壇■達は同寺の復活■すべく先頃来修理中のところ本堂天井裏の棟木の間からづしを発見し取調べた結果五寸余の黄金の鬼子母神像が現れ(中略)奈良朝時代の作と應永年間松山城主上田能登守の守本尊で松山城落城の時紛失し以来今日まで発見されなかったものであること判明した」*■は判読不明
- 回答
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所蔵新聞では、昭和2年10月30日の記事は確認できなかった。また、埼玉県立文書館の所蔵新聞でも、該当記事は確認できなかった。
なお、次の資料に松山城主上田氏と鬼子母神像に関する記述があり、これを紹介した。
『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』(埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉県神社庁 1986)
p1410-1411「天児安神社」
「歴史 一方(上田)憲定は小田原城落城後、単身松山城にたどり着いたものの、すでに城は敵の手に落ち、やむなく東秩父の御堂村の日蓮宗浄蓮寺へ逃れ、かくまわれた。 (中略)長くはかくまえず、憲定は寺との関係を断って小川の曹洞宗大海寺の檀那となるとともに浄蓮寺に祀ってあった運慶作と伝える一尺一寸の鬼子母神像を持って御堂村から、かつて家臣であった関口忠左衛門を頼り、皆谷村に移って曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。
信仰 一間社流造り見世棚の本殿内には、彩色の鬼子母神立像が祀られている。この神像の台座には、「南無妙法蓮華経・鬼子母神」と彩色・再興年紀・施主名があり、宝永七年に塗り替え、安永九年に再興、更に嘉永二年に塗り替えられたことがわかる。」
- 回答プロセス
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新聞記事データベースを検索する。
《ヨミダス歴史館》 (読売新聞社)該当する記事なし。
《埼玉新聞記事見出し検索システム》(埼玉県立図書館)該当する記事なし。
新聞原紙・マイクロフィルムを確認する。
『朝日新聞マイクロフィルム版』 該当する記事なし。
『東京日々新聞(現毎日新聞)上武版・埼玉版』 該当する記事なし。
自館所蔵資料を確認する。
『埼玉宗教名鑑 上』(埼玉新聞社 昭和53年11月刊の複製)
p360に光官寺の住所・住職・本尊・由緒などの記述はあるが、鬼子母神については記載なし。
『埼玉県郷土資料総合目録』(埼玉県立浦和図書館 1971)
新聞 該当年代なし。
『東秩父の文化財』(東秩父村文化財保護委員会編 東秩父村教育委員会 1982)
『東秩父村郷土史年表』(東秩父村 東秩父村 1991)
『東秩父村の歴史』(東秩父村編 東秩父村 2005)
『関東の城址を歩く』(西野博道著 さきたま出版会 2001)
『松山城址 松山城址をみんなで守ろう 比企の自然と文化財シリーズ』(比企の自然と 文化財を守る会編 比企の自然と文化財を守る会 1971)
『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会編 1968)
『武州松山城 松山城をめぐる関東の諸情勢』(長澤士朗著 吉見町 1994)
インターネット情報を確認する。
《埼玉県総務部学事課》「宗教法人一覧(東秩父村)2013年8月7日更新」(https://www.pref.saitama.lg.jp/a0204/shukyo/shukyo-higasititibumura.html 埼玉県)
「光官寺」あり。「02994 曹洞宗 光官寺 西澤 久仁 東秩父村皆谷90」
《埼玉県立文書館収蔵資料検索システム》(http://www.monjo.spec.ed.jp/ 埼玉県立文書館)を〈東京朝日新聞〉〈武蔵新聞〉で検索したところ、該当時期の新聞の所蔵あり。
埼玉県立文書館に質問の日付の新聞の内容を確認したが、該当の記事は見つからないという回答を得る。
ウェブサイトの最終アクセス日は2014年7月15日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 寺院.僧職 (185 9版)
- 仏像 (718 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 光官寺
- 鬼子母神像
- 上田能登守
- 東秩父村
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物 言葉 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187572