レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/07/02
- 登録日時
- 2023/08/02 00:30
- 更新日時
- 2023/08/17 10:49
- 管理番号
- 秋田-2927
- 質問
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解決
『秋田風土記』の完成年について、『新秋田叢書 第15巻』の「秋田風土記」の解題や解題中の山崎真一郎の記述の引用に文化十二年とあるが、六郡全巻の完成が文化十二年なのか。文化十二年とする、他の根拠の資料や研究があれば知りたい。
- 回答
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記載のある資料は確認できず。参考までに以下の資料を案内。
①『日本歴史地名大系 5 秋田県の地名』(平凡社、1980、291.0/ヘニ/5)資料番号:111343521
②『菅江真澄全集 5巻』(菅江真澄/著、未来社、1975、081/スス/5郷)資料番号:124214396
③『菅江真澄全集 別巻1 菅江真澄研究』(菅江真澄/著、未来社、1977、081.5/スス/(ベ1)郷)資料番号:111338398
④『校訂・解題久保田領郡邑記』(柴田次雄/編、無明舎出版、2004、212/シク/郷)資料番号:124326851
- 回答プロセス
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1.国立国会図書館サーチにて「秋田風土記」をキーワード検索。下記資料が該当。
①『日本歴史地名大系 5 秋田県の地名』(平凡社、1980、291.0/ヘニ/5)資料番号:111343521
→P654 文献解題の中に「真澄の地誌編修に先立つ文化十二年、淀川盛品により「秋田風土記」が著されたという。(中略)「秋田風土記」も刊本にはならず、筆写伝承されたために異本が残存している。」との記載あり。
2.Googleブックス検索にて「秋田風土記」をキーワード検索。下記資料が該当。
②『菅江真澄全集 5巻』(菅江真澄/著、未来社、1975、081/スス/5郷)資料番号:124214396
⇒P428-P451 解題の中に「既に編まれていた近藤甫寛の「久保田領郡邑記」の各巻の記事に、各地の寺社から寄せられた回答資料を整理、補筆しただけで、新たな「秋田風土記」を編むことにしたのである。(中略)「秋田風俗問状答」の執筆が終わるとすぐに、淀川盛品が「秋田風土記」の編集にとりかかった証拠はその本文にみえる。「秋田風土記」の山本郡種村(二ツ井町)の箇所には、文化一二年の紀年が記されているから、そのころから盛品の没する文政元年まで執筆が続けられて、ほぼ完成をみたかと思われる。」との記載あり。
③『菅江真澄全集 別巻1 菅江真澄研究』(菅江真澄/著、未来社、1977、081.5/スス/(ベ1)郷)資料番号:111338398
⇒P365-P387 秋田風土記の項にて「この理由を推察するならば、「風俗問状」答書の資料として藩内各地の社家、肝煎などに通達して、寺社の縁起、祭事を報告させたのは文化九年ごろと思われるが、その回答資料を基にして盛品は「秋田風土記」を編んだ。その執筆にとりかかった時期は「風俗問状答」を書き終えてからだから、文化一二年ごろとみるのは妥当であろう。(中略)既掲、山本郡種村の記事のなかに、「文化十二年乙亥」と紀年した註記のあるのは、おそらく、淀川家から貸し出した原本にはなくて、借覧、筆写をした村方衆の書入れと思われる。」との記載あり。
3.郷土のレファレンス資料を確認。
④『校訂・解題久保田領郡邑記』(柴田次雄/編、無明舎出版、2004、212/シク/郷)資料番号:124326851
⇒P851-P857 久保田領郡邑記の記事の下限の項にて「もし「久保田領郡邑記」の原本が享和元年に近藤甫寛の献上した「領中六郡紀行」だとすれば、「久保田領郡邑記」の掲載記事の下限もまた享和元年の前年、つまり寛政十二年(一八〇〇)でなければならない。結論を先にしよう。その下限がまさに寛政十二年なのである。そして、現存する「寛政六郡記」(甫寛六郡記)及び「秋田風土記」の記事の下限は、それから十五年後の文化十二年(一八一五)なのである。」との記載あり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 歴史 (2)
- 参考資料
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- 日本歴史地名大系5平凡社
- 菅江真澄全集第5巻菅江 真澄/著未来社
- 菅江真澄全集別巻 1菅江 真澄/著未来社
- 校訂・解題久保田領郡邑記柴田 次雄/編無明舎出版
- キーワード
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- 秋田風土記(アキタフドキ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000336832