レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/01/23
- 登録日時
- 2024/01/31 00:30
- 更新日時
- 2024/02/01 11:19
- 管理番号
- 所沢富岡-2023-010
- 質問
-
解決
新選組の「沖田総司」の亡くなったといわれる場所が複数あるときいた。参考になる本があれば、見せてほしい。
- 回答
-
〇『新選組日誌 下』 菊地明/編 KADOKAWA 2013年
p.610-611 「五月三十日(7・19)」の項目に「沖田総司、江戸で病死する。」の記載と以下の解説あり
「『同志連名記』は沖田総司の死亡地を「江戸浅草今戸松本順先生宿にて病死」としているが、明治二十二年一月に筆記された吉野家文書は「右近藤勇五郎に質し之を記す」というもので、ここでは千駄ヶ谷を死亡地としている。」
以下の資料にも記載があります。
〇『沖田総司の謎』 菊地明/著 新人物往来社 1978年
〇『地図と読む新撰組顚末記』 永倉新八/著 KADOKAWA 2020年
〇『新選組』 伊東成郎/著 新潮社 2020年
〇『新選組のすべて』 新人物往来社/編 新人物往来社 2004年
〇『新選組全隊士徹底ガイド』 前田政記/著 河出書房新社 2004年
〇『水戸黄門は旅嫌いだった!?』 楠木誠一郎/著 朝日新聞社 2006年
〇『新選組』 河出書房新社 2020年
〇『完全データファイル新選組』 新選組研究会/[編] 角川学芸出版 2012年
〇『歴史道 Vol.28』 朝日新聞出版 2023年
- 回答プロセス
-
1.所蔵資料の内容確認
〇『沖田総司の謎』 菊地明/著 新人物往来社 1978年
p.185-230 「第四章/江戸再び 残された日々」の項目内
p.206-230 「沖田総司死ス」の項目あり
p.230に 「沖田総司 慶応四年五月三十日 今戸ニテ死ス―」と記載あり
2.後日調査の追加事項
〇『地図と読む新撰組顚末記』 永倉新八/著 KADOKAWA 2020年
p.215-247 「新選組資料」の項目内
p.216-231 「同志連名記-杉村義衛遺稿」の項目内
p.217 「白川脱藩 沖田総司 江戸浅草今戸八幡松本順先生宿にて病死」と記載あり
〇『新選組日誌 下』 菊地明/編 KADOKAWA 2013年
p.297-815 「慶応四年・明治元年」の項目内
p.610-611 「五月三十日(7・19)」の項目に「沖田総司、江戸で病死する。」の記載と以下の解説あり
「『同志連名記』は沖田総司の死亡地を「江戸浅草今戸松本順先生宿にて病死」としているが、明治二十二年一月に筆記された吉野家文書は「右近藤勇五郎に質し之を記す」というもので、ここでは千駄ヶ谷を死亡地としている。(中略)
沖田が療養していた千駄ヶ谷の植木屋が柴田平五郎といい、大正元年刊行の『東京市及接続郡部地籍台帳』の「地籍台帳」によって、その地所が当時の大番町八九ノ一と同九〇ノ一にあり、「地籍地図」によって、その場所が現在の新宿区大京町二九番地の歩道上から、その西側の車道上にほぼ位置していたことが判明している。その東側にあった離れ座敷で、沖田は息を引き取ったのである。(後略)」
〇『新選組』 伊東成郎/著 新潮社 2020年
p.317-377 「Ⅴ 北へ―新選組滅亡編」の項目内
p.332-335 「沖田総司の死」の項目内
p.334-335に以下の記載あり
「永倉新八が後年記した「同志連名記」によれば「江戸浅草今戸八幡、松本良順先生宿にて病死」とある。(中略)この記述が根拠となり、今戸八幡境内には「沖田総司終焉の地」と刻銘した小碑が建てられている。
子母沢寛は、沖田の死について近藤勇の娘婿の勇五郎から取材している。昭和六年(一九三一)子母沢は『新選組物語』に、沖田が「千駄ヶ谷池尻橋の際にあった植木屋の平五郎というものの納屋」にて療養し、死を迎えたと記し、その二年前の著書『新選組遺聞』には、移動時期は二月末だったという勇五郎の証言を伝えている。(中略)
子母沢は『新選組物語』に、沖田が数日前から庭先にやってくる黒猫を斬ろうとして、果たせぬままに最期を遂げたという伝説的なエピソードを伝えているが、その劇的さゆえか、むしろ千駄ヶ谷での死亡説には疑念をもたれることが多かった。すべてが巧妙な創作と見る向きすらあったのである。だが、勇五郎の知人の吉野泰三が、千駄ヶ谷での沖田の病死を勇五郎から直接伝えられたことを明治二十二年に認めた書状が、平成七年(一九九五)に清水隆氏によって『歴史読本』七月号に発表され、子母沢説の強力な傍証となるにいたった。
沖田の死亡場所に比定されるのは現在、新宿御苑の一部となっている旧高遠藩邸の南側付近で、交通量の激しい外苑西通りに面しながらも、流れを失ったまま、時を永久に止めてしまったような水無川の遺構が残されている。(後略)」
〇『新選組のすべて』 新人物往来社/編 新人物往来社 2004年
p.186-291 「新選組隊士栄名録」の項目内
p.207-208 「沖田総司」の項目内
p.208に以下の記載あり
「慶応四年五月三十日(1868・7・19)没す。その亡骸は、千駄ケ谷の植木屋平五郎の処から、麻布の専称寺に運ばれたというが、総司終焉の地についても今戸死亡説があって判然としない。しかし、現在では、千駄ケ谷の植木屋平五郎宅が終焉の地とされる。」
〇『新選組全隊士徹底ガイド』 前田政記/著 河出書房新社 2004年
p.29-42 「3 一番組~十番組組長」の項目内
p.30-31 「14 沖田総司(おきた そうじ)一番組組長」に
「佐藤家より江戸に引き返した沖田は今戸の将軍家御典医の松本良順邸、千駄ケ谷の植木屋平五郎宅離れと場所を変えて静養に努めたが五月三十日、病死した。」と記載あり
〇『水戸黄門は旅嫌いだった!?』 楠木誠一郎/著 朝日新聞社 2006年
p.141-156 「「沖田総司」伝説の謎」の項目内
p.146-147 「総司はどこで死んだのか」の項目内
p.147に以下の記載あり
「総司が死んだ場所には「浅草今戸八幡境内の松本良順の自邸の一室」「千駄ケ谷池橋尻の際にあった植木屋の平五郎」宅の離れ座敷ないし納屋の二カ所が挙がっているが、どちらが正しいかわかっていない。」
〇『新選組』 河出書房新社 2020年
p.87-102 「新選組銘々伝」の項目内
p.90-91 「沖田総司」の項目内
p.91に以下の記載あり
「それからおよそ四カ月間に及ぶ療養の末、沖田は江戸で病没した。浅草の今戸八幡に寄留していた幕府の医師・松本良順の宿舎内で死亡したと、隊士の永倉新八は書き残している。また一方、作家の子母沢寛は、近藤勇の婿養子にあたる近藤勇五郎からの取材として、沖田は千駄ケ谷に住む植木屋平五郎(植甚)宅の離れ座敷で死亡したという話を『新選組遺聞』で紹介している。」
〇『完全データファイル新選組』 新選組研究会/[編] 角川学芸出版 2012年
p.9-68 「第一章 試衛館の傑物」の項目内
p.28-35 「沖田総司」の項目内
p.35 「◆◆最後まで近藤を気遣い、孤独の中で死す」に以下の記載あり
「(省略)御典医・松本良順の江戸の診療所で養生し、良順の世話で千駄ケ谷の植木屋・柴田平五郎の離れに移った。(省略)最後まで、近藤を気遣いながら、沖田は誰に看取られることもなく、ひとり静かにその生涯を終えた。」
〇『歴史道 Vol.28』 朝日新聞出版 2023年
p.29-39 「決定!新選組隊士 最強ランキングBEST20」の項目内
p.34 「最強ランキング第4位 沖田総司」に
「今戸神社(東京都台東区)の境内が最期の地と伝わるが、正しくはその後、千駄ケ谷の植木屋の納屋に匿われ同地で没した。」の記載と共に「沖田総司終焉の地碑」の写真掲載あり
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
-
- 沖田総司の謎 菊地明/著 新人物往来社 1978 289.1
- 地図と読む新撰組顚末記 永倉新八/著 KADOKAWA 2020.2 210.58 978-4-04-604700-7
- 新選組日誌 下 菊地明/編 KADOKAWA 2013.11 210.58 978-4-04-600046-0
- 新選組のすべて 新人物往来社/編 新人物往来社 2004.5 210.58 4-404-03180-7
- 新選組全隊士徹底ガイド 前田政記/著 河出書房新社 2004.1 210.58 4-309-40708-0
- 水戸黄門は旅嫌いだった!? 楠木誠一郎/著 朝日新聞社 2006.3 281.04 4-02-259894-8
- 新選組 伊東成郎/著 新潮社 2020.5 210.58 978-4-10-131873-8
- 新選組 河出書房新社 2020.5 210.58 978-4-309-98011-9
- 完全データファイル新選組 新選組研究会/[編] 角川学芸出版 2012.11 210.58 978-4-04-407704-4
- 歴史道 Vol.28 朝日新聞出版 2023.7 210.05 978-4-02-277934-2
- キーワード
-
- 沖田総司
- 沖田総司
- 新選組
- 今戸神社
- 千駄ヶ谷
- 幕末
- 江戸時代
- 今戸八幡
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000345663