レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007年02月23日
- 登録日時
- 2007/02/13 15:36
- 更新日時
- 2009/03/04 19:24
- 管理番号
- 山形県-2006-0075
- 質問
-
解決
山形鋳物の起こりについて知りたい
- 回答
-
「山形県大百科事典」などによれば、次のように出ています。「山形県内で史料や鋳造品から確認されている鋳物産地は、山形、米沢、河北町の谷地、酒田、鶴岡、大山、余目の廻館(まわたて)などですが、現在では山形市だけが産地としての形態を示しています。山形鋳物の成立・発達要因をみると、山形の城主最上義光が寺社崇拝から多くの寺院を創建し、宝物や黒印地を寄進した。これら仏具需要と職人の保護政策が、山形鋳物の基礎形成に役立ったといわれている。最上家改易以後は、小藩主の転封が相次ぎ、産業の奨励も十分でなかったが、出羽三山信仰の参詣者によって、山形の町は門前町的性格を帯び、非常に繁盛した。お土産品の中には仏具もあり、その需要も相当あったとみえ、明和(1764~72)のころには36人の鋳物師がおったことが記されています。
明治になり廃藩置県・廃仏毀釈の運動が起こり、近世の鋳物産地はほとんど没落、山形も同様の道をたどりましたが、日露戦争後、工廠に出稼ぎに出た者が伝えた機械鋳物の技術で、機会鋳物の製造が進められ、なかでも五百川鉄工所の五百川作太郎は、人絹研究の秦逸三(はた いつぞう)博士の(旧制米沢高等工業学校教授)の指導を受けて、我国で最初の人絹製造機を完成、全国的なものにしました。その後絹人絹織機の製造に成功、「イモガワ織機」として国内はもちろん外国にも輸出した。そうして日用品鋳物のほか機会鋳物の製造も盛んになり、鋳物産地としての名声を得た。また、大戦の終了とともに統制されていた民需産業も開放され、ハッピーミシン(株)の設立により機械部品も盛んとなり、東北一の機械工業と結合した鋳物産地となった。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 金属加工.製造冶金 (566 9版)
- 参考資料
-
-
山形大百科事典 山形放送(株)/編
山形鋳物業のあゆみ 小形利吉/著
最上川流域の自然と人文/「最上川流域の自然と人文」編集委員会/編 -
山形市史 上巻 山形市/編
河北町の歴史 上巻/河北町誌編纂委員会/編 今田信一/執筆
-
山形大百科事典 山形放送(株)/編
- キーワード
-
- 山形鋳物
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000033387