以下の資料に関連の記述を確認しました。
・『足尾銅山史』(村上安正/著 随想舎 2006)
p.112「第七章 足尾銅山の発展 第1節 横間歩大直利補捉と通洞の開鑿 明治20年代の主要開坑」の項に、持木杭で出た白色の母岩を原料に耐火煉瓦を製造したこと、その煉瓦を本山・小瀧の製錬高炉用や東京・本所熔銅反射炉に使用したところ、よい結果が出たという記述があります。
・『足尾銅山労働運動史』(足尾銅山労働組合/編,出版 1958)
p.25 「第一章 銅山の発見から古河財閥の確立まで Ⅳ 直利の発見と銅山の近代化 坑内施設の改善」の項に、持木抗では白粘土が多量に出たので、これを利用して通洞抗口の近く煉瓦工場をつくり、製煉の炉材や火薬庫の材料などに用いたという記述があります。
・『資料足尾鉱毒事件』(内水護/編 亜紀書房 197
p.349 「第二部 資料編 足尾銅山予防工事一班 予防工事材料」の項に、新たに煉瓦製造所を設け、既存の建物に煉瓦を利用する等の対策を講じたとの記述があります。
・『コメンタール日本経営史料大系 第7巻』(加藤尚文/編 三一書房 1987)
p.91「戦前編 Ⅰ 近代産業技術の移入・摂取 25 にわかに独自化達成した製銅・精銅技術」の項に、足尾銅山の吹床製炉はレンガ製だったと記述があります。
・『渋澤栄一傳記資料 第11巻』(渋沢青淵記念財団竜門社/編 渋沢栄一伝記資料刊行会 1956)
p. 494-495「第十二節 煉瓦製造業 第一款 品川白煉瓦株式会社 第十章 耐火煉瓦製造業の成功
」の項に、国内で製造した耐火砂土を古河溶銅所の鎔銅用反射床に試用したところ、海外の製品に劣らない結果だった旨の記述があります。
・『栃木県の近代化遺産』(栃木県教育委員会文化財課/編, 発行 2003)
p.262-263 「各論編 152 宇津野火薬庫」の項に煉瓦造平屋建として紹介され、足尾銅山火薬貯蔵庫として造られた倉庫と記述があります。
p.266 「各論編 155 古河鉱業間藤工場(工作課)(足尾製作所足尾工場)」の項に煉瓦造として紹介され、製品倉庫と第3倉庫と称される2棟の煉瓦造建物があると記述があります。
p.271 「各論編 160 間藤水力発電所跡」の項にレンガ造りとして紹介され、足尾銅山の電気化を進めた松木川の河原にレンガ造の建物基礎が残るのみと記述があり、足尾銅山の電気化を進めたとあります。
p.300-301 「資料編 資料編-2 足尾町」の項に愛宕下社宅防火壁、深沢社宅防火壁、中才社宅防火壁、掛水社宅防火壁、構造は煉瓦造と記載があります。