レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年10月26日
- 登録日時
- 2024/01/18 09:57
- 更新日時
- 2024/01/18 09:58
- 管理番号
- 横浜市中央2710
- 質問
-
解決
昭和初期から戦後の横浜にあったという「ミミ美容室」の住所や経営者について
わかる資料はないか。
また、パーマネント・ウェーブ機の歴史にも興味がある。
昭和7(1932)年頃のパーマネント・ウェーブ機の普及状況について
書かれた資料があれば、見たい。
- 回答
-
「ミミ美容室」についてお調べしたところ、複数の住所が確認できました。
また、経営者は「吉元テイ」「吉本貞子」など様々な表記で紹介されており、
東京でも美容院を経営していたことがわかりました。
昭和7(1932)年頃のパーマネント・ウェーブ機の普及状況についての資料も
あわせてご紹介します。
1 ミミ美容室の住所
電話帳や商工名鑑等に、住所等が記載されていました。
なお、昭和初期には、美容室名・経営者名ともに似ている「美々美容室」も
あったようです。参考にご紹介します。
(1) 昭和7(1932)年以前:弁天町(町名のみ。詳細は不明)
ア『現代日本名士録 昭和7年版』よろづ案内社 1932
※「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可
https://dl.ndl.go.jp/pid/1107388/1/73
p.123「吉本テイ子女史 横濱市山下町」
「横濱ニューグランドホテルに聘せられて外人の美容施術を擔任、
後ち同市辯天町にミミ美容室を開業」
イ『角川日本地名大辞典14 神奈川県』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編纂 角川書店 1984.6
p.782「弁天町<横浜市鶴見区>」「弁天通<横浜市中区>」
横浜に「弁天町」という町名ができたのは、昭和16(1941)年のため、
上記アの出版された昭和7(1932)年時点では存在しません。
当時から存在した似た町名に中区の「弁天通」がありますが、詳細は不明です。
(2) 昭和10(1935)年~17(1942)年:横浜市中区山手247
ア『職業別電話名簿』日本商工通信社/編 日本商工通信社 1935
※「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/1112313/1/602
横浜p.23「ミミ美容室 吉元テイ 中、山手二四七」
イ『横浜市電話番号簿』横浜中央電話局/編 横浜中央電話局
「昭和14年4月1日現在」版p.96 「ミミ美容室 吉元テイ 中、山手二四七」
「昭和15年4月1日現在」版p.98 同上
「昭和17年10月1日現在」版p.102 同上
ウ『東京横浜近県職業別電話名簿 〔昭和16年版〕』
日本商工通信社/編 日本商工通信社 1941.4
横濱p.28「ミミ美容院 吉元テイ 中、山手、二四七」
エ「横浜市土地宝典 中区之部」1930.4 ※マイクロフィルム
昭和5年時点の地図で、店舗名の記載はありませんが、
「山手町・天沼町・諏訪町」のページで該当の場所を確認できます。
(3) 昭和29(1954)年、昭和34(1959)年:横浜市中区山手町15
ア『横浜市商工名鑑 1954』
日本産業情報社/編 日本産業情報社 1954.5
p.589「有限会社 ミミ美容室 吉元テイ 山手町15」
イ『中区明細地図 昭和34年度版』経済地図社/編 経済地図社 1959.7
p.53「中区山手町15」に「ミミ美容室」があります。
(4) 参考「美々美容室」
ア『大横浜商工録』横浜名鑑社/編 横浜名鑑社 1929.11
p.81「美々美容室 吉見貞子 中、日本大通リ」
イ『神奈川県商工録 二市及半島編』横浜名鑑社/編 横浜名鑑社 1930.4
横濱市p.81「美々美容室 吉見貞子 中、日本大通リ」
2 ミミ美容室の経営者
上記1(1)に略歴が掲載されていますが、ほかにも紹介されている資料が
ありました。また、「国会図書館デジタルコレクション」で
「ミミ美容室」「ミミ美容院」「吉本」「吉元」「貞子」「テイ」等
を掛け合わせて検索すると、下記以外にも資料がヒットします。
(1)『パーマネント読本』加藤忠一/著 KATO理容館化学研究所 1936
※「国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービス)」で閲覧可
https://dl.ndl.go.jp/pid/1025177
p.4「横濱ニューグランドホテル美容部の吉本貞子先生(現在横濱山手町及
東京内幸町大阪ビルに開業されている)の如きは最も深い経験者と云へませう」
(2)『美容読本』美容の友社/編 美容の友社 1934
※「国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービス)」で閲覧可
https://dl.ndl.go.jp/pid/1235905/
p.296「東京・大阪ビル・ミミ美容室 吉元貞子先生」に
「パーマネントウェーブの権威者」とあります。
(3)『日本人物情報大系 第4巻(女性叢伝編4)名流婦人情史』
芳賀登/〔ほか〕編 皓星社 1999.07
p.294「俎上の名流婦人」(坂戸公顕/著 三耕社 1936)の「著名美容院
案内」に「ミミ美容院 吉本貞子 麹町区内幸町大阪ビル内」とあります。
(4)『婦人年鑑 5(昭和14年版)』日本図書センター 1988.5
p.578に「吉本貞子(略)ミミ美容院主」とあります。
3 パーマネント・ウェーブ機の普及
日本でのパーマネント・ウェーブ機の導入には、諸説あるようです。
昭和7(1932)年前後の状況および歴史全般がわかる資料をご紹介します。
(1) 昭和7(1932)年前後の導入店舗数・普及状況
ア『髪の社会史』飯島伸子/著 日本評論社 1986.9
p.139「昭和四年にこの機械をもっていた美容院は全国でわずか六軒だった
そうです」
イ『美容現代史』日本理容美容教育センター 日本理容美容教育センター 1970
※「国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービス)」で閲覧可
https://dl.ndl.go.jp/pid/12212021
p.129「昭和四年(一九二九年)にパーマネント機械を備えた美容院は
全国にわずか六軒であった」
ウ「家庭/断髪以後 パーマネント・ウェーブについて/中村進治郎」
(朝日新聞 昭和7(1932)年1月22日 p.5)
「パアマメント機を持ってるといふ美容院は東京に十軒近くあるが」
エ『髪 春山行夫の博物誌』春山行夫/著 平凡社 1989.2
p.163「パーマネントは(略)一般には普及しなかった。それがぼつぼつ
はじまったのは昭和六、七年からで、昭和九年には国産機が誕生して(略)
その翌年から市場に出回った」
オ『光を求めて 私の美容35年史』山野千枝子/著 サロン・ド・ボーテ 1956.6
p.149~「昭和七年六月(略)この頃になりますとパーマネント機械は、
銀座の牧野商店の手によってシェルトン会社の製品が輸入されていました。
(略)この機械を備え付けてある美容院は全国で数えるほどしか」
(2) 歴史全般がわかるその他の資料
下記資料のほか、新聞記事データベースで「パーマネント」等と検索すると
当時の記事や広告がヒットします。あわせてご参照ください。
ア『江馬務著作集 第4巻 装身と化粧』中央公論社 1976 p.204
※横浜や神戸に入荷したとの説あり
イ『明治・大正・昭和の化粧文化 時代背景と化粧・美容の変遷』
ポーラ文化研究所/編集 ポーラ文化研究所 2016.7 p.91~
ウ『日本の理髪風俗 風俗文化史選書』坂口茂樹/著 雄山閣出版 1972 p.233
エ『モダン化粧史 化粧文化シリーズ』
ポーラ文化研究所/編著 ポーラ文化研究所 1986.11 p.114
オ『明治事物起原1 ちくま学芸文庫』石井研堂/著 筑摩書房 1997.5 p.202~
カ『舶来事物起原事典』富田仁/著 名著普及会 1987.12 p.281
キ『事物起源辞典 衣食住編』朝倉治彦/等編 東京堂出版 1970 p.319
インターネット最終確認日:令和5年11月5日
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 衣食住の習俗 (383 10版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000344847