レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年10月28日
- 登録日時
- 2011/09/25 09:28
- 更新日時
- 2011/09/25 09:28
- 管理番号
- 9000006876
- 質問
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解決
明治40年の水害で、笛吹川の流れていた場所がどのように変わったのか知りたい。
- 回答
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以前は、現在の近津堤(ちかつてい)から平等川のところが笛吹川の流路だったが、明治40年の水害で流路が変わったため、現在の笛吹川は、昔の鵜飼川だったところを流れている。
- 回答プロセス
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1.郷土資料K51河川関係の書架を調査(笛吹川は、釜無川と合流して富士川となるので、富士川関係の資料の調査となった)。
・『甲斐の道づくり・富士川の治水:歴史資料集』(建設省関東地方建設局甲府工事事務所企画・発行 1989年)→p180-181に「明治四十年の出水は、未曾有という言葉どおり富士川流域は、壊滅的な損害を受け、笛吹川の川筋がこの時に変わって現在のようになっている」とあり、当時の写真の掲載がある。
・『富士川25選 治水の伝統川の恵み永遠に:第2回富士川河川懇談会』(富士川河川懇談会(富士川サミット)事務局 1988年)→p49に「明治44(ママ)年の洪水では、1キロにわたって、笛吹川、重川、日川の合流点が破堤し、河川の流路が変った。いまの平等川のことろが以前の笛吹川で、今の笛吹川は、昔の鵜飼川のところを流れている」とある。
2.地誌の関係資料を調査。
・『角川日本地名大辞典』第19巻 山梨県(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1984年)→「笛吹川」の項に次のような記述がある「「国史」によれば笛吹川は現在とほど同様の流路を取っていた。しかし明治年間特に、明治40年の大水害前には、現在の近津堤から平等川の流路を取っていた。ところが明治の大洪水で近津堤が決壊し、大被害をもたらすとともに、本流の流路が再び南流して鵜飼い川に移った。」
・『山梨の地理ものがたり』(山梨県社会科教育研究会編 日本標準 1988年)→「果実と温泉さと:東八代郡石和町」の章に「町の東を流れている笛吹川」の項があり、明治40年の水害の際、笛吹川の流れが変わった話と「笛吹川の流れ:むかしといま」の図がある。
・『石和町誌』第1巻 自然編・歴史編(石和町誌編さん委員会編 石和町 1987年)→p1134に明治40年の水害による「河身変更」について記述がある。これによると、水害で一面に砂に埋まったあと、笛吹川と鵜飼川は、もとの形が全くなくなってしまい、水は勝手に低いところを流れていた。そこで河川の改修工事が必要になり、旧笛吹川は砂の流入で地面が高くなり、旧鵜飼川の方が地面が低くなったため、笛吹川はもとの鵜飼川の位置に変更された。
- 事前調査事項
- NDC
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- 河海工学.河川工学 (517)
- 参考資料
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- ・『富士川25選 治水の伝統川の恵み永遠に:第2回富士川河川懇談会』(富士川河川懇談会(富士川サミット)事務局 1988年) (p49)
- 『山梨の地理ものがたり』(山梨県社会科教育研究会編 日本標準 1988年) (p128-129)
- 『石和町誌』第1巻 自然編・歴史編(石和町誌編さん委員会編 石和町 1987年) (p1134)
- 『角川日本地名大辞典』第19巻 山梨県(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1984年) (p696)
- キーワード
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- 笛吹川
- 河川
- 明治四十年水害
- 水害
- 笛吹市
- 山梨県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土(土木・治水)
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000091751