レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年12月10日
- 登録日時
- 2023/09/14 14:07
- 更新日時
- 2024/03/05 16:21
- 管理番号
- 広県図実習2023-11
- 質問
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解決
江戸時代、豊前中津藩の飛領地(備後領)にあった小畠代官所に、郷目付として勤めていた佐竹氏について知りたい。系譜もあれば見たい。
- 回答
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関連資料は次のとおりです。系譜が記載された資料は見当たりませんでした。
『油木町史 通史編上巻』油木町史編さん委員会/編集、油木町、2004【H21.94/ユキチ104/2-1ア】
p.637-641 一揆の状況
p.637-638 「『神石郡誌』には小畑代官所の御用留の記事として、つぎのように引用している。(略)天明三年 二月(略)佐竹小源太・中山郡兵衛 下豊松村へ罷り越し候、(略)」
p.640 「佐竹小源(弥カ)太(資料編史料四〇によれば郷目付)らが入村する事態となったが、(略)」
『油木町史 資料編歴史』油木町史編さん委員会/編集、油木町、2004【H21.94/ユキチ104/1-1ア】
p.263-281 四〇 「備後勤書写」(幕末期)
p.271以降、佐竹姓が散見されます。
p.281 「(解説) 中津藩備後領において、在地で登用された代官及び郷方の由来書の写しである。(略)」
『会報志摩利夜話 第1号~58号』さんわ郷土史研究会/著、さんわ郷土史研究会、2011【H21.94/サンワ111】
第1号(平成7年3月)
p.5-6 「寛政十一年前半の小畠代官所「御用日記」に登場する役人名」 松井正夫
郷目付・郷方の項目に佐武姓(この記事の漢字表記は「竹」ではなく「武」)の記載があります。
『広島県史 近世2』広島県/編、広島県、1984【H21/H73-3/5ア】
p.219-238 中津藩の備後領
p219-224 備後領の支配
p.223 表79 郷目付・郷方役の任免年月
佐竹姓の役人が記載されています。
p.224 「備後領代官所の(略)その役人には一八世紀半ばから両佐竹・河合・中山(もと山手姓)の四家から任命されていたようである。表七九は郷目付・郷方役の任免年月の明らかなものをかかげた(略)」
『神石郡誌』神石郡教育会/編、復刻版、名著出版、1980【H291.94/J52aア】
p.3-33 沿革
p.19-21 天明の飢饉
p.19 上記『油木町史 通史編上巻』に引用された記述があります。
p.272-281 代官所
p.279-281 牢屋
p.279 「明治四年放火に依り打首にせられたる男一人ありたり。(略)鄕目付佐竹嘉六の面前に差出し檢分を乞ふ。」
p.281 御役方
「代官所最終に於ける定詰役方の宛行等左の如し。(略)同[祿米] 八石六斗五升 鄕目付 佐竹嘉六 同[禄米] 八石五斗四升 鄕方 佐竹彌太郎」
『三和町誌』三和町誌編さん委員会/編集、三和町、1994【H291.94/サンワ94ア】
p.94-138 中津藩の支配
p.100-108 代官
p.100 「また、郷目付や郷方には、佐竹二家と河合・中山(もと山手姓)の四家から任命され、おおむね世襲制であった。」
p.121-138 五人組
p.126-133 表2-14 領域とその支配 奥平中津藩備後領の支配
居郷目付の欄に佐竹姓の記載があります。
この他、次の資料を確認しましたが、関連の記述は見当たりませんでした。
『新坂の歴史と文化』新坂の歴史と文化編纂委員会/編纂、新坂自治振興区、2016【H21.91/シンサ116ア】
『東城町史 第5巻 自然環境 原始 古代中世 近世通史編』東城町史編纂委員会/編纂、東城町、1999【H21.92/トウシ91/5ア】
『甲奴町詩』甲奴町詩編纂委員会/編集、甲奴町、1994【H21.93/コウヌ88/2ア】
『神石郡誌続編 昭和編』広島県神石郡誌続編編集委員会/編集、広島県神石郡誌続編刊行会、1974【H291.94/J52/2】
『中津藩史』黒屋直房/著、国書刊行会、1987【219.5/87ク】
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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『備陽史探訪』54号(1992.7)、備陽史探訪の会(p.5-7「中津藩の代官支配について-神石郡小畠代官所の場合-」出内博都)
- NDC
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- 中国地方 (217 8版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 郷目付
- 佐竹氏
- 豊前中津藩
- 小畠代官所
- 広島県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000338664