レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年03月11日
- 登録日時
- 2014/03/22 11:28
- 更新日時
- 2014/03/22 11:28
- 管理番号
- tr322
- 質問
-
解決
宇都宮氏の家臣であった野沢(のざわ)氏に関する資料はあるか。
- 回答
-
野沢氏について、関連する記述が確認できた資料をご紹介します。
・『栃木の苗字と家紋 下巻』(遅沢俊郎/著 下野新聞社 1989)
p86-88に「野沢(のざわ)」姓についての詳細な記述がありますが、出典の記載はありません。
・『宇都宮弥三郎羽柴国綱公家臣連名簿 慶長二酉年正月三日水戸家ニ入ル』(著者不明 自館複製資料)
※徳田浩淳「宇都宮氏「家臣録」」(『下野史料』40号(徳田浩淳/編 下野史料保存会/発行 1974)p4-27所収)に、この資料の翻刻が掲載されています。
以下の家臣名が記載されていました。
「野沢伊予守」
「野沢隼人
同 内記
同 雅楽亮」
また、同資料収録の「天保三年辰二月相改メ候分 宇都宮弥三郎旧臣名簿」に、以下の家臣名が記載されていました。
「野沢雅楽亮 石末村 野沢源左ヱ門」
「野沢内記 物井村 野沢理右ヱ門」
「野沢伊予守 幕田村 野沢清右ヱ門」
・『宇都宮下野守国綱家臣帳』(著者不明 自館複製資料)
※「宇都宮下野守「国綱家臣帳」」(『下野史料』40号 p28-30所収)に、この資料の翻刻が掲載されています。
「石末 高三千石 野澤若狭守」と記載があります。また、翻刻を掲載している『下野史料』40号の注に、「主なる家臣の知行高を書き上げたものである。石高は、慶長二年の時の所領高と思われる。」とあります。(p28)
・『宇都宮一族』(宇都宮義真/著、発行 1962)
「下野国宇都宮氏」の「戦国時代」の「広綱」の項に、「永禄元年(一五五八)五月三十日、越後の上杉謙信が、会津の芦名盛氏のすすめで下野国に攻め入り、小山高朝は降参し、壬生綱雄も敗れたが、(略)野沢保辰(略)等が善戦し」とあります。(p28)
また、「国綱」の項に、「文禄元年(一五九二)一月、朝鮮の役に、豊臣秀吉の命により、七千五百騎を率いて宇都宮を進発して朝鮮に渡り、文禄四年(一五九五)四月、帰城した。」とあり、先陣に「野沢伊予守」、小荷駄に「野沢綱氏」が挙げられています。(p32-33)
・『高根沢町史 通史編1 自然 原始古代・中世 近世』(高根沢町史編さん委員会/編 高根沢町 2000)
「第4章第1節 三 「礎の地」の激闘」の「那須衆を撃退」に、野沢氏などが石末城に在城して那須衆を撃退し、野沢氏は宇都宮国綱から新左衛門尉といった官途を恩賞として与えられたとの記述があります。(p451)
「第4章第3節 二 高根沢の城館跡」の「街道の攻防阿久津城」に、「阿久津城は貞和四年(一三四八)に宇都宮氏の家臣野沢若狭守により築かれたと伝わるが、史実かどうかは明らかではない」との記述があります。(p468)
p470の「幻の城・大館」の項には、「野沢氏がいたと伝えられる」と記述されています。
・『高根沢町史 史料編1 原始古代・中世』(高根沢町史編さん委員会/編 高根沢町 1995)
p575-576に「宇都宮国綱官途状」(那須衆を撃退したことの恩賞)が記載されています。
p809-814に「阿久津城」の記述があり、城主は野沢若狭守と記載されています。
p823に「大館」の記述があり、城主は石居野沢若狭守と記載されています。
・『高根沢町郷土誌』(小川寿々夢、鈴木旭翠/編 高根沢町 1963)
「西部編 第二章第三節 各村落の沿革」の石末村、笹原の項(p24-25)に、「宇都宮家臣記に、明応以後数十年間この地に領預りが居住し、領預り石居野沢若狭守とある。」との記述があります。
また「西部編 第八章第八節 阿久津城の由来」(p185)には、「正平十九年頃、宇都宮城主は宇都宮公綱であったことは確かだが、芳賀氏はその臣であり、芳賀氏の臣に、野沢若狭守という者があって、阿久津城を築城して、二千石を領していた。とされているが、(略)たしかな古文書等の記録は、何一つ発見できない。」と述べられています。
・『栃木縣史 第7巻 古城址編』(田代善吉/著 臨川書店 1972 下野史談会1936発行の復刻版)
p438-439に阿久津城址、p446-447に大館城址の記述があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 野沢氏
- 宇都宮氏
- 家臣
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000151073