『浪花の風』は、『日本随筆大成 第3期 第5巻』のP389-406に収録されており、資料の成立についても触れられております。
(1)『浪花の風』の成立時期
「本書は、久須美祐雋が安政三年の正月より筆を起し、大阪町奉行に在職中に見聞したその地の人情・風俗・物産・食物などについてなにくれとなく書き記したもの」(解題P5-6)とあります。
なお、この解説によりますと、久須美祐雋は安政二年に大阪町奉行となり、文久三年八月に講武所奉行並に転じ、その年の十二月二十四日に卒したとあります。この情報によれば、安政三年(1856)~文久三年(1863)頃の随筆であるようです。
(2)大阪の蕎麦とうどんについて
以下に該当の箇所を引用いたします。
「食物江戸より風味の勝りたるものもあれども、また江戸人の口には適し難く、且敵ひ難き計にもあらず、風味の劣りしものも少からず。其内蕎麦切は殊にあしく、其色合もあかみを帯て味ひ宜しからず。只他の加入もの多き故にはあらず。真の生蕎麦にても一体の性合よろしからざる故、風味劣れるなり。其上製法もよろしからず。旁江戸人の口には敵ひ難し。これ蕎麦は土地の性に応ぜざる故なるべし。
温飩は蕎麦に引替、大によろし。其色合も雪白にして味ひ甘美なり。夫故市中にも温飩店は多く、いづれの店物にても皆よろし。予は蕎麦はそもそも嗜好なれども、温飩は素より好まず。されども当地のうどんは、江戸に比すれば格別よろしき故、蕎麦に替て不断食することなり。」(P396)
(3)「天下の台所」という言葉について
「浪花の地は、日本国中船路の枢要にして、財物輻輳の地なり。故に世俗の諺にも、大坂は日本国中の賄所とも云、又は台所なりともいへり。」(P389)との記述はありますが、“天下の台所”との記述は見つかりません。
なお、“天下の台所”の言葉の出現などについては、野高宏之『「天下の台所」と「大大阪」』(『大阪の歴史 70号』, 2007.12 ,P63-98) のなかで詳しく論じられており、その中では、江戸期の資料にはこの言葉が見えず、幸田成友が『大阪市史 第二巻』(1914年刊)のなかで用いたのが初見である、とされています。