レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年10月21日
- 登録日時
- 2017/05/24 10:57
- 更新日時
- 2017/07/11 11:23
- 管理番号
- 埼熊-2017-003
- 質問
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解決
岩槻城落城日について各文献には5月19-22日と記載されている。「落城が5月」という記述が何を証拠・根拠として作成されたか、その出典となった文献、古文書が知りたい。
- 回答
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以下の資料に該当する記述があった。
『埼玉県立博物館紀要 7』(埼玉県立博物館 1981)
p46-61 大村進 「岩付落城をめぐる「豊臣秀吉朱印状について」」
p52 「次に落城の日については、大別して(1)五月二十日説と(2)五月二十二日説に分かれる。(1)は「小田原編年録」「関八州古戦録」「北条記」「新編武蔵風土記稿」「新編埼玉県史」等の所説で、(2)は「北条五代記」「史料綜覧」「榊原康政書状写」に代表される見解である。両者の所説をここで詳しく述べるのは割愛するが、両説の妥当性は次に掲げる「榊原康政書状写」(註16:(天正十八年)六月日付の松平義行氏所蔵文書)(ケ)の記述によって明白となろう。」
続けて「榊原康政書状写」の引用あり。「中一日持、五月廿二日明渡候」とあった。
『新編武蔵風土記稿 [第3期]第1巻 大日本地誌大系 7』(雄山閣 1977)
p104 「五月岩槻城陥る」に廿日とあり、出典は「小田原記」とあり。
『新編埼玉県史 資料編6 中世2』(埼玉県編 1980)
p767 「一五四九 豊臣秀吉朱印状〔埼玉県立博物館所蔵文書〕」〔解説〕に「五月二十二日 豊臣秀吉、本多忠勝・鳥井元忠・平岩親吉の三人宛に朱印状を送り、岩付城陥落の浅野長吉・木村一の注進を、二十一日夜受け取りし旨を伝え、この三人を御上使として、岩付城の請渡しを完了すべきことを命ず。」とあり。
p768 「一五五一 豊臣秀吉朱印状〔「弘文荘待賈目録」所収〕」〔解説〕に、「五月二十三日 豊臣秀吉、平岩親吉に書を送り、五月二十日の岩付城攻略の軍功を賞し、残党の処理などを命ず。」とあり。
- 回答プロセス
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1 自館目録を〈全項目:岩槻城 所蔵館:熊谷〉で検索し、出版年が新しい資料から確認する。
『岩槻城と城下町 いわつき郷土文庫 第3集』(岩槻市教育委員会教育総務部生涯学習課文化財係編 岩槻市教育委員会 2005)
p54-55 「岩槻城を守っていた松浦康成(まつうらやすしげ)の5月21日付書状が残されており、そこには豊臣方に攻められている岩槻城内の様子が克明に記されている(「越前史料」所収山本文書)」とあり。
p57 「二〇日に開始された豊臣方による岩槻城攻撃は二二日には決着が着いた。落城後の処理を本多忠勝・鳥井元忠・平岩親吉の三人に命じた秀吉の朱印状(埼玉県立文書館所蔵文書)から豊臣方の動きをみてみると(略)」とあり。
『戦国時代のさいたま 城と館からさぐる』(さいたま市立博物館〔ほか〕編 さいたま市立博物館 2005)
p5-8 大村進「戦国時代の岩付城をめぐって」に5月19日とあり。この論考の出典資料については記載なし。この展示図録の巻末p50に主な参考文献のリストあり。
p8 「中一日おいて5月22日、宿将伊達与兵衛房実は本丸櫓から傘を挙げて降伏を乞い、使僧を出して和平交渉に当たらせた。」とあり。
『岩槻市史 通史編』(岩槻市 1985)
p349 「岩付城の落城」の項目に、「北条記」からの引用文あり。
「家康衆には本多中務少将・鳥井彦右衛門尉・平岩主計頭等、都合一万三千余騎にて同五月廿日押し寄る。(略)残る大将の伊達を初め降人に成て城を渡しける。」とあり。
p349 頭注に「城を渡しける(略)以上のように五月二十日の早朝からの激戦で、岩付城は陥落した。」とあり。
p350 「第10表 小田原支城の落城」に「〔月日〕五・十九 〔支城名〕岩付 〔守城者名〕太田氏房配下 〔攻城者名〕浅野・本多 〔備考〕五・二二開城」とあり。
『埼玉の古城址』(中田正光著 有峰書店新社 1983)
p294 「(前略)裸にされた岩槻城も五月二十二日、城内に火をかけられ、激戦の末落城した。」とあり。
『北条史料集 戦国史料叢書 第2期1』(萩原竜夫編 人物往来社 1966)
p202-203 「六 岩付城落城之事」 前掲『岩槻市史 通史編』 p349の引用文と同一である。
『新編埼玉県史 通史編2』(埼玉県 1988)
p708 「5月20日に浅野長吉・木村一以下二万余の大軍の総攻撃を受けると、たちまち「端城」(外郭)を破られ、三の丸・二の丸と攻め落とされてわずか一日ともちこたえられずに開城するにいたった(中世2 一五四九・一五五一)。」とあり。
『新編埼玉県史 資料編6 中世2』(埼玉県編 1980)(回答資料)
『小田原北条記 下 関東の名城小田原の栄華から悲劇の落城・滅亡まで 教育社新書』(江西逸志子原著 岸正尚訳 教育社 1980)
「(三)岩槻城落ちる」の項目には「彼らは合計一万三千余騎で、天正十八年(一五九〇)五月二十日に岩槻城に押し寄せた。」とあり、押し寄せた日の記述はあるが、落城した日の記述はない。
『岩槻城は誰が築いたか 解き明かされた築城の謎』(小宮勝男著 さきたま出版会 2012)
落城について巻末歴史年表に記述あり。「「岩槻市史年表」から抜粋」とあり。
『岩槻城と町まちの歴史』(菊地丕〔ほか〕著 聚海書林 1987)
p37 「5 岩付城攻防とその落城」に「大軍に包囲された本丸の伊達与兵衛尉は力つきた二十二日、傘を掲げて降参し、太田道灌築城以来百三十年余、六代続いた太田氏の居城岩付城は落城したのである。」とあり。
出典は「大村進氏『岩付落城をめぐる豊臣秀吉朱印状について』(県立博物館研究紀要)」とあり。
『北条五代記 日本合戦騒動叢書 13』(勉誠出版 1999)
p252 「武州岩付は(略)五月二十二日に攻め落とす。」とあり。
2 1の出典で出てきた資料を確認する。
『埼玉県立博物館紀要 7』(埼玉県立博物館 1981)(回答資料)
3 2の出典で出てきた資料を確認する。
『新編武蔵風土記稿 [第3期]第1巻 大日本地誌大系 7』(雄山閣 1977)(回答資料)
- 事前調査事項
- NDC
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- 地理.地誌.紀行 (290 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『埼玉県立博物館紀要 7』(埼玉県立博物館 1981)
- 『新編武蔵風土記稿 [第3期]第1巻 大日本地誌大系 7』(雄山閣 1977)
- 『新編埼玉県史 資料編6 中世2』(埼玉県編 1980)
- キーワード
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- 岩槻
- 落城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000216488