レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024/01/17
- 登録日時
- 2024/01/17 18:27
- 更新日時
- 2024/03/14 09:52
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中-郷土-169
- 質問
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解決
下鴨にあったという松竹の撮影所について知りたい。
- 回答
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大正12年(1923)、京都市左京区下鴨宮崎町に松竹下加茂撮影所が、関東大震災で蒲田撮影所の機能が停止したことをきっかけに開かれました。
大正14年(1925)6月末に、京都に来ていた蒲田撮影所のスタッフが引き上げたことにより、一度は閉鎖されました。大正15年(1926)に松竹京都撮影所と改称し、再開されました。【資料1、2、5】
昭和7年(1932)4月には、音声の出る映画を作るトーキースタジオが完成しました。【資料5、7】
松竹下加茂撮影所では、田中絹代のデビュー作「元禄女」が、松竹京都撮影所になってからは、衣笠貞之助監督の「狂った一頁」や林長二郎(後の長谷川一夫)の主演第一作「稚児の剣法」、溝口健二監督の「残菊物語」などが撮影されました。【資料1~6】
昭和25年(1950)7月24日に、フィルム倉庫から出火し、撮影所は全焼しました。京都新聞等では、生フィルムが高温により自然発火したことが出火原因と伝えています。【資料8、9】
その後、昭和27年(1952)松竹の子会社である京都映画株式会社の撮影所となりました。【資料1、2】
昭和49年(1974)に太秦へ移転し、昭和52年(1977)に建物が取り壊されました。【資料2、3】
- 回答プロセス
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●レファレンス協同データベースで“京都 撮影所”を検索・・・【資料1~3】
●【資料3】の参考資料より・・・【資料4、5】
●松竹の社史を確認・・・【資料6】
●当館所蔵の郷土の地誌を確認・・・【資料7】
●【資料3】の記述より、当館所蔵の新聞マイクロフィルムを確認。・・・【資料8、9】
- 事前調査事項
- NDC
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- 映画 (778)
- 近畿地方 (216)
- 参考資料
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- 【資料1】『映画ロマン紀行』(中島 貞夫/[ほか]著 京都国際映画祭組織委員会京都事務局 1994)p32~33“松竹下加茂撮影所”
- 【資料2】『キネマの世紀』(松竹映像本部映像渉外室 1995)p10~13“京都松竹撮影所史”
- 【資料3】『京都映画図絵』(鴇 明浩/編,京都キネマ探偵団/編 フィルムアート社 1994)p152~156“賀茂川沿いの美観地区に松竹の撮影所”
- 【資料4】『講座日本映画 5』(今村 昌平/[ほか]編集 岩波書店 1987)p72~75“京都の撮影所”、p156~169“わが松竹下加茂撮影所”
- 【資料5】『京都の映画80年の歩み』(京都新聞社/編著 京都新聞社 1980)p64~67“東京の映画人 京都へ大移動”、p81~85“18 新感覚派映画連盟”、p223~249“京都映画史年表”
- 【資料6】『松竹百年史』(松竹 1996)p41~101“〔下加茂作品〕”、p144~147“京都の撮影所”、p361~431“松竹年表”
- 【資料7】『親と子の下鴨風土記』(下鴨の文化を子どもたちに伝える会/編集 下鴨の文化を子どもたちに伝える会 1991)p39~40“下鴨が映画村に”
- 【資料8】『京都新聞マイクロフィルム』1950年7月25日朝刊2面“無残・焼失した下加茂撮影所 スター連、ぼう然 西井助監督焼死に哀愁一入”
- 【資料9】『朝日新聞京都版マイクロフィルム』1950年7月25日朝刊京都1“松竹京都撮影所焼く”
- キーワード
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- 映画
- 撮影所
- 下加茂
- 下鴨
- 左京区
- 松竹
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000344829