レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月24日
- 登録日時
- 2012/02/23 17:07
- 更新日時
- 2013/09/05 17:45
- 管理番号
- 97-B-27
- 質問
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解決
住友別子銅山の公害(煙害)の被害状態を知りたい
- 回答
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【資料1】【資料2】【資料3】をまとめると、次のとおりである。
・明治二十四年(1891)頃から、新居浜製錬所の生産量の急増に伴って、製錬所に近い新居浜、金子の二ヶ村を中心に亜硫酸ガスによる煙害が現れはじめた。(【資料2】第四表、金子村の米麦収穫高の経年変化を示したものが参考になる)
・明治二十六年(1893)九月、金子・新居浜・庄内・新須賀の四村(いずれも現・新居浜市)の農民代表は、稲や農産物の大被害を愛媛県に訴え、また新居浜村でも新居浜分店に被害原因の調査を求めたが、調査結果は、一種の虫害とされた。農民側が挙げた被害の実例は次のとおりである。
①一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、そ葉類は生育しない。
②苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少を来し、ついに枯死する。
③松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。
④桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を生じる。
⑤呼吸器病が増加する。
⑥藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。
⑦屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。
⑧墓石に生えた苔がことごとく剥落する。
⑨降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが死ぬ。
・明治三十七年(1904)、四阪島に移転した溶鉱炉の試験運転を開始すると間もなく、対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出、翌三十八年に本操業を開始すると、越智・周桑両郡の各村から煙害の叫びがおこった。
・明治三十九、四十の両年には煙害の声はいっそう大きくなった。愛媛県、別子鉱業所がそれぞれ調査し、その結果、農業被害は煙害であることが確認された。被害地域は新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範囲にわたり、四阪島を中心に越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・山林地帯まで拡大した。
・明治四十一年には、煙害は従前よりいちだんと激しくなった。これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)が頻繁に続いたものと考えられる。前記四郡の麦作は減収になったばかりか、七、八月には亜硫酸ガスに襲われた稲の葉が一様に黄褐色の斑点を生じ、前年程度の結実さえも期待できなくなった。
・他に、被害状態について、【資料2】に次のような記載がある。
被害区域は三郡四町三八ヶ村(宇摩郡の被害地域はこれには含まず)に及び、被害を受けた農家戸数は三万余戸、田畑反別はおよそ一万二、三千町歩に達していた。四阪島は新居浜、今治からそれぞれ十八キロメートル離れているといっても、内海であったために、西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が発生する。特に、春から夏の農作物育成期には北東よりの風が多く、それだけ被害を激化させることになった。農民たちが四年間に被った損害額は、米麦の被害だけで合計約三七万円になるとしている。一戸当りの被害額は一〇円強と少ないが、この地域一帯が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。農家煙害の被害は米麦のみならず、山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は自給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわめて重大な問題であったと考えられる。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 環境工学.公害 (519 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】 『住友別子鉱山史 下巻』 住友金属鉱山株式会社住友別子鉱山史編集委員会/編集 住友金属鉱山 1991年 <請求記号:K560 /21 /2>
- 【資料2】 『郷土史談 第5巻第5号(昭和54年5月号) 通巻46号 (別子銅山煙害事件 菅井益郎/著)』 新居浜郷土史談会/編集 新居浜郷土史談会 1979年 <請求記号:K214 /7>
- 【資料3】 『別子三〇〇年の歩み』 住友金属鉱山株式会社/発行 1991年 <請求記号:K560 /25>
- キーワード
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- 煙害 えんがい
- 四阪島 しさかじま
- 別子銅山 べっしどうざん
- 住友 すみとも
- 照会先
- 寄与者
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- 新居浜市立別子銅山記念図書館
- 備考
- 事例出典『郷土資料に関する調査・相談事例集』 愛媛県図書館協会・愛媛県立図書館/編集 愛媛県立図書館 1997年
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000102162